第09話:その音楽が示すもの

 失意を胸に私は静かに舞台を降りる。


 その足取りは重く、心はまるで鉛と化したかのように沈んでいる。まばらな拍手が会場にただ寂しく響く。


 そして、そのパラパラとこぼれれ落ちる拍手の音は、遠くの夜空で力尽きた花火の残響のように、むなしく宙へと消えてゆく。華やかな会場の雰囲気と、お客さまの冷え切った反応との温度差が、さらに私の孤独を誘う。


 そんな絶望的な雰囲気の中、今にもあふれて落ちそうな涙を隠すように、私は必死に歯を食いしばる。


 多くの人を感動させてこそ音楽には命が宿る。特定の人にしか理解されない音楽なんて、結局は独りよがり。そんな音楽に一銭の価値もない……。その想いが私の心に重くのしかかり、一歩進むたびに全身から力を奪う。


 それでも私は、懸命に表情をつくろいながら、やっとの思いで自席に辿たどり着く。そしてゆっくりと腰を下ろす。すると目頭が我慢できなくなるくらいに燃え上がり、思わず視界が揺らめいてしまう。


 しかしその時、私の頭にポンとのる温かい感触、優しい景明ジンミンさまの右手の感触……。その瞬間、私の背筋は反射的にピンと伸びて、心臓が一気に跳ねる。


「お疲れさま、雪梅シュエメイ。さすが杏音シンインが見初めた才能だ、素晴らしい演奏だったよ。……ところで今日弾いた曲は雪梅シュエメイの作曲かい?」


「は、はい。今日のために、昨日の夜……」


 しかし、私が言葉にできたのはここまでで、心に残った無念さが、それ以上の言葉を紡ぐことを許さない。だから私は、両の手のひらを膝の上にのせ、それをぎゅっと握りしめる。手のひらににじむ熱い汗を、じっと我慢する。しかし、景明ジンミンさまの反応は、私の予想と大きく異なるものであった。


「あ、あれだけの曲を、昨日の夜だけで……」


 そんな景明ジンミンさまのつぶやきは、本来であれば私に喜びを与えるものであった。しかし今の私には、その言葉ですらとてつもなく重い……。


 でも、そんなの当り前だ。この音楽宴で、私の音楽が届いたのは少数の人にだけ、多くの人の心には響かなかった。その事実は明らかで、疑う余地もないのだから……。


 だから私は、悔しさと恥ずかしさで、まっすぐ景明ジンミンさまと目を合わすことすらできやしない……。


 でも、この機会をくださった景明ジンミンさまへの感謝の気持ちに偽りはない。この機会がなければ、私は一生、宮廷楽士への挑戦すらできなかったかもしれないのだから……。


景明ジンミンさま」


 精一杯の笑顔を作り、私は必死に言葉を続けてゆく。


「このような機会をくださって、本当にありがとうございました。この舞台に立てただけで……私、充分幸せでした」


 無念の気持ちを無理やり心の中に押し込んで、私はゆっくりと視線を景明ジンミンさまにむける。そして口角を必死にあげて、つたない笑顔を景明ジンミンさまに向ける。でも、そこにあったのは、景明ジンミンさまの意外な顔で、驚いた表情で……。


「何を言っているんだ雪梅シュエメイ。君の音楽は素晴らしかった、本当に素晴らしかった。いままで聞いたことのない音楽の世界だった。しかも一晩であの音楽を、あれほど優れた表現力で……」


 そんな景明ジンミンさまの言葉を、私は最後まで聞き取ることができなかった。なぜなら景明ジンミンさまは、そう言葉を紡ぎながらゆっくりと立ちあがり、腕を組みながら空を見上げてしまっていたのだから……。


 そして必死に何かを考えている景明ジンミンさまを見つめながら、私はそれを不思議に思っていたものの、急に景明ジンミンさまの言った言葉の重みが胸に落ちてくる。


 もしかして景明ジンミンさまはお世辞ではなく、本当に私の音楽を素晴らしいと言ってくれたのではないか? ふと、そう思えてしまう。そして、そんな気持ちが、私に少しの勇気を与えてくれたものの、それ以外の複雑な感情も私を覆う。


 だから私は下を向き、自分の指先をついつい見つめてしまう。何を言えばいいのかわからなくなってしまう。


 すると景明ジンミンさまは、急に我に返ったように目を開けて、「すまない、雪梅シュエメイ。ちょっと考え込んでしまった」と声をかけてくれる。そんな優しい言葉に笑顔を返すと、景明ジンミンさまは照れくさそうに、再び隣の席へと腰を下ろす。


 そして身を寄せ、私に小声で話しかけてくれる。だから私は聞き逃すまいと真剣に耳を傾ける。すると景明ジンミンさまの吐息が頬をかすめ、そのほのかな温もりで私の心臓は小さく跳ねる。近すぎる距離に、頬は思わず熱くなってしまう。


雪梅シュエメイ、あの音楽は誰かに教えてもらったものではない。それでいいんだよな? これは他の人に聞かすことができない大切な話だ。真剣に答えて欲しい」


 その景明ジンミンさまの問いに、私は「はい」と素直に答えてみせる。すると景明ジンミンさまは再び腕を組み、宙を見つめ始める。しかしそれも一瞬で、すぐに私に笑顔を見せてくれる。


「大丈夫だよ、雪梅シュエメイ。君の音楽は仙術とはまるで違う魅力がある。それは間違いない。ただ、それを上手く表現するのは難しいのだが……」


 景明ジンミンさまはそう言って、深い思索に沈むように瞳を閉じる。それはまるで、自分の心の中から、最も適切な言葉を探し出そうとしているかのよう……。


雪梅シュエメイの音楽は、音と仙術を使って五感で楽しませる音楽ではない。なんというか、こう、心に直接語りかけてくるというか、直接心に響くというか……、そういう音楽なんだ」


 景明ジンミンさまは申し訳なさそうにそう告げたものの、「心に響く」という言葉に私は思わず息をのむ。


 それは私自身が音楽に込めていた、けれども言葉にできずにいた想いそのものであったのだから……。ずっと探していた答えを見つけたような気持ちになったのだから……。


「いいかい、雪梅シュエメイ。君の音楽は、みんながみんな、すぐに分かるような音楽ではないんだ。なんというか、分かる人にしか分からないというか、時代の先を行き過ぎているというか……」


 そう苦しそうに話を続ける景明ジンミンさまの言葉一つ一つが、私の中の不安を優しく溶かしていく。そしていつの間にか、私の心は感謝の気持ちで一杯になっている。


 だから私は小さく頷いて、「ありがとうございます」と素直に気持ちを伝えることができた。そしてその瞬間、今まで重くのしかかっていた全ての不安が、春の雪のように静かに溶けていくのを感じざるを得なかった。


景明ジンミンさま、景明ジンミンさま」


 そのとき急に遠くから聞こえてくる景明ジンミンさまを呼ぶ男の人の声。その声を聞いた景明ジンミンさまは一瞬眉をひそめたものの、私には変わらない優しい微笑みをむけてくれる。


「すまない、雪梅シュエメイ。私はそろそろ席を外さないといけない。申し訳ないが、音楽宴が終わるまでここで待っていてくれないだろうか? このあと君に大切な話をしなければいけないから……」


 そんな景明ジンミンさまの言葉に私は小さく頷いた。すると景明ジンミンさまは安堵の表情を浮かべ、私の肩を軽く叩く。そして「すまない」と一言残して、その場から足早に立ち去ってゆく。


 そして私は、肩に残るかすかなぬくもりを感じながら、静かに音楽宴の終わりを待つことにする。ただ、胸の内に気がかりなことが一つだけ残る。


 でもそれは音楽の問題ではなく、まだ燃えるように熱い頬を冷ますという、些細ささいな問題であったのだけれども……。

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