第08話:私の旋律、私だけの旋律

 李叔叔おじさまからお借りした二胡にこをしっかりと右手に持ち、「大丈夫、大丈夫」と独り言をつぶやきながら、私はゆっくりと舞台袖から舞台へとむかう。そして舞台の中央に立ち、視線を観客席に向ける。その瞬間、司会者さまの声が会場に響き渡る。


「続きまして、最後の演奏者を紹介いたします。ここ洛鳳ルオフォンのとある酒家で楽士をされている雪梅シュエメイさんでございます」


 そして会場中に巻き起こるのは大きな拍手。その刹那、私の心臓は大きく跳ねる、手のひらに冷たい汗が滲む。


 しかし今の私には恐怖に立ちむかう力がある。私を支えてくれるみんなからの想いがある。だからこの程度の緊張に負けはしない。


 そんな決意を心の前に出し、私は頭に差してある劉新リウシンくんからもらったかんざしを左手で軽く触る。そして観客席に深々と頭を下げる。


 何も心配することなんてない。だって、今日の音楽宴は国事である迎暑節の音楽宴。ここにいるお客さまは、みんな音楽を聞きなれた貴族さまばかり。昨日、藍天ランティエン酒家で私の音楽を聞いてくれたお客さまとは違う。ちゃんと音楽を分かる人ばかり。


 だから大丈夫。きっと私の音楽を理解してくれる。景明ジンミンさまもそう言ってくれたじゃない。


 そう考えた私は「ふぅ」と大きな深呼吸をして、杏音シンインさまからお借りした旗袍チーパオすそを左手で少しあげる。そしておもむろに、自分の後ろに置かれていた椅子に腰をかける。


 そして椅子に座って目をつぶり、いままで起きたことを一つ一つ思いだす。


 大丈夫、私はみんなから色々なものを借りてこの舞台に立っている。今の私はいままでの私じゃない。私を支えてくれる人々の想いをこの舞台に連れてきている。だから、きっとうまくいく。できるはずなんだから!


 そんな言葉を心の中で繰り返し、私は音楽に心を集中させてゆく。そして、それが心の中で整ったその瞬間、私は、李叔叔おじさまからお借りした大切な二胡にこの弓を手前に引く。すると二胡にこは、まるで緋色ひいろの絹を解くように、しっとりとした音を紡ぎ出す。その低くて、深い音色は会場を徐々に満たしてゆき、その温かみのある響きにいざなわれ、私の心は徐々に音楽の世界へと吸い込まれてゆく。それに伴い、私の中で過去の色々な記憶が蘇ってくる。


 そういえば、二胡にこを弾き始めたのはいつだったであろうか?


 記憶もなく、食べるものもなく、街をさまよっていたあの頃、李叔叔おじさまに拾われて……。


 そう、藍天ランティエン酒家に連れてきてもらった直後のことであったであろうか? さみしそうに虚空を見つめていた私に、杏音シンインさまが声をかけてくれたのは……。


 そんな淡い想いを二胡にこにのせ、私はその音楽をしっかりと紡いてゆく。弦に置かれた指をゆっくりと滑らせてゆく。


 すると左手の指で優しく押さえた弦が、蝶の羽ばたきのように繊細に揺れ、あたかも初夏のつゆが花びらを伝うように、澄んだ音がこぼれ落ちてゆく。そしてそのかすかな震えが、二胡にこならではの繊細で物寂しい音色を立ち昇らせてゆく。


 そのとき音楽を知った私は、二胡にこを知った私は、それから少しずつ孤独ではなくなってきた気がする。私には過去の記憶が何も残っていないけれど、杏音シンインさまや李叔叔おじさまとの思い出が、それを優しく埋めてくれたと思うから……。だから私は、そんな想いを二胡にこにしっかりと込める。


 すると奏でる二胡にこの音色は、言葉を持たないまま、懐かしさと切なさが混ざり合ったような響きとなる。その音は、さながら月光に照らされた竹林を吹き抜ける風のように、静かに会場全体へと広がってゆく。


 一つひとつの音が、秋の夜空に浮かぶ星々のようにまたたいて、水面に落ちた墨汁ぼくじゅうのように、会場全体ににじんでは溶けこんでゆく。そして、それが細かく揺れ動いたかと思うと、朝つゆが消えいるようにはかないい余韻を残してゆく……。


 そして私は思い出す。街で飢えて困っている劉新リウシンくんを初めて見たあのいたたまれない気持ちを……。私だけが飢えから逃れることができたのは、本当に正しかったのだろうかという複雑な気持ちを……。その無常で虚しく、でも、心に強い気持ちが芽生えたあの瞬間を……。


 私はそんな気持ちを音に込め、二胡にこを奏でていったものだから、その音は淡いかすみのように軽やかに舞いあがり、喜びでもない、悲しみでもない、そんな無常をただ表現してゆく。


 しかしそこには前へ進む意志もしっかりと含まれていて、でも、どこか遠くで感じた記憶を呼び起こすような、風に乗って流れてゆくような、そんな切なさも生みだしてゆく……。まるで忘れかけた想いの一つひとつが、今この瞬間、音に姿を変えて現れてくるかのように……。


 それから、私が企画した飢えた子供たちにご飯を食べさせてあげる食事会。そしてそれはいつしか大きくなって、いつの間にか私の二胡にこを聞いてもらうような場になって、みんなの笑顔がどんどん広がって……


 そんな思いを曲に込めると、その音は少しずつ厚みを帯びて、胸の奥に優しさが広がって、弓が弦の上をすべるたびに、心の中でいいようのない感情が膨らんで……。


 確かに、それは痛みがあるけれど、そこにはちゃんと救いがあって、ちゃんと安心があって、そう訴えかけてくるような不思議な余韻があって……。まるで夕立のあと、湿った風がそっと頬を撫でてゆくような、そんな余韻を残っていて……。


 そんな不思議な幸せに包まれた私の音楽は、次第に薄く、透明になってゆく……。あたかも手を伸ばした瞬間に消えてしまう夢のように、淡いうたかたの夢のように……。


 そして私は最後の音を紡ぎ出し、二胡にこの弦から手を離す。すると会場全体を静寂が覆う。しかしそれは決して空っぽの静けさではなく、今、私が紡いだ一音一音が、空気に溶けた結果の静寂せいじゃく。心の中に薄く残り続ける余韻よいんが織りなすそんな静寂せいじゃく。少なくとも私はそれを音楽で表現したつもりであった。


 しかし現実は甘くない。演奏を終えて私が視線を観客席にむけたとたん、そこに広がっていたのは、お客さまの呆れた顔と退屈そうな顔であったのだから……。


 そうか、やっぱり仙術のない音楽はダメなのか、私の音楽は通用しないのか……。そんな絶望感が私を包みこむ。まるで透明な壁にぶつかってしまったような感覚を味わってしまう。


 どれほど美しい音色を出そうと頑張っても、仙術の光を持たない音楽はこの世界では通用しない。


 そう痛感した私は、ただ「ごめんなさい」と、私を支えてくれた人たちにむかって謝ることしかできなかった。

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