第07話:迎暑節の音楽宴にて

 初夏の高い太陽が水晶のような輝きを放ち、首都・洛鳳ルオフォンを灼熱の光で包みこむ。夏特有の湿った空気が肌をじっとりと包み、会場の外では人々が暑さにあおられている。


 本来なら私の気持ちも、そんな空気に呼応するように、熱く燃え上がっていなければならなかった。でも……、今、私の心は氷河のように凍てついている、冷え切っている。


 この会場に来る前に、みんなから託された熱い気持ちは鍍金めっきのようにげ落ちて、いま私の心を覆っているのは単純な恐怖だけ……。まるで真冬の吹雪に立ち尽くす針葉樹のような、体の芯まで凍えてしまう感覚だけ……。


「みんな、ごめんなさい……」


 私は必死になって、心の中でそう何度も何度も繰り返す。だって今、私の目の前で繰り広げられているのは信じられない光景で、信じたくない現実で……。


 そう、今、私が目にしているのは水の幕。見るものすべてを圧倒するかのような水の壁。そしてそれを操るのは、笛子てきしを巧みに弾きこなす長衣を着た初老の男。


「これが仙術、これが本当の音楽……」


 そんな独り言が自分の中で重たく響く。


 いつも杏音シンインさまの仙術を見慣れていたとはいえ、この音楽宴で披露されている仙術は、大規模で、美しくて、ただ圧倒的で……。


 これから私は、こんなすごい楽士さま達と戦わなければならない。そう考えれば考えるほど、心はきゅっと締めつけられて……。


 でも、この楽士さまたちに勝たなければ、私の夢である宮廷楽士への道は開かれない。この人達に勝たなければ、杏音シンインさま、李叔叔おじさま劉新リウシンくん、私を支えてくれるたくさんの人達の気持ちに応えることができない。


 だから私はそんな感情を必死に揺り起こし、ただ椅子の上で、腿の上で、ぎゅっと拳を握りしめる。すると、ゆったりとした純白の旗袍チーパオすそに、小さな汗の染みが広がってゆく……。


「だめ、自分を強く保たないとダメ、好機から逃げてはダメ!」


 私は、そんな独り言を心の中で何度も何度も繰り返す。目を閉じて、今にも逃げだしたい衝動からじっと耐える。


 しかし……、モノには限度というものがある。だから私は、そんな重圧に耐えきれず、立ち上がろうとしたその瞬間、私の拳をそっと握ってくれる優しい手、景明ジンミンさまの暖かい手。


「演奏中は席を立ってはいけないよ、雪梅シュエメイ


 私の隣に座っていてくれる景明ジンミンさまは、静かにそう微笑んで、視線を私に向けてくれる。その表情は優しいけれど、何か確信めいた強い意志が宿っているようにも見える。


「大丈夫。雪梅シュエメイの音楽は、この楽士たちに決して負けてはいない」


「でも、私、仙術が……。あの方たちみたいな壮大な演出は……」


 震える声で、そう不安を吐露とろしようとした私の唇に、そっと人差し指を立ててくれる景明ジンミンさま。


「仙術は確かに美しい。でも雪梅シュエメイ二胡にこから奏でられる音楽にはそれ以上の何かがある。だから雪梅シュエメイは、雪梅シュエメイの音楽を演奏すればいい。結果は必ずついてくる。私はそれを知っているんだよ」


 景明ジンミンさまは優しい口調だけれども、力強くそう言葉を紡ぐと、私の右手においた手のひらにぎゅっと力をこめる。そして真剣な視線を舞台に向ける。


 夏の鋭い陽の光は景明ジンミンさまの高い鼻筋に影を落とし、瞳の奥に静かな光を灯す。そんな景明ジンミンさまの横顔が、私の心に少しの勇気をくれる。


 そうだ、今日は年に一度しか行われない迎暑節の音楽宴。帝国内外から、宮廷楽士を目指して世界中の楽士が集まってくる特別な日。


 だから音楽の水準レベルが高いのは当たり前。だから私は人のことなんか考えず、自分の音楽を表現することだけを考えよう。私を信じて推薦してくれた景明ジンミンさまや、二胡にこを教えてくれた杏音シンインさま、そして送り出してくれた李叔叔おじさま劉新リウシンくんのために演奏することだけを考えよう。


 そう考えが結論に至った瞬間、私の心に再び決意の炎が灯る。そしてその小さな炎は、まるで氷を溶かすかのように、私のおびえ切った心を少しずつ温めてゆく。


雪梅シュエメイさん、雪梅シュエメイさんはいらっしゃいませんか?」


 そのとき、ふいに聞こえてくる司会者さまの声。


 私はすぐに「はい」と返事をして、今できる精一杯の笑顔を作り出すと、それを私に勇気をくれた景明ジンミンさまへとむける。


「ありがとうございます、景明ジンミンさま。私には、杏音シンインさまが貸してくれた旗袍チーパオ、李叔叔おじさまが貸してくれた二胡にこ劉新リウシンくんがくれたかんざし……。それだけじゃない、私を支えてくれているたくさんの人の想いや、さきほど景明ジンミンさまがくれた勇気があります。だから私は大丈夫です!」


 私は、できる限りの元気な声で景明ジンミンさまにそう告げると、強い決意を胸に椅子から立ち上がる。


 そうだ、これから始まるたった五分の演奏時間。その五分で、私の夢である宮廷楽士になれるかどうかが決まる。その好機を決して無駄にするわけにはいかない。


 私を支えてくれるすべての人たちのためにも、私は頑張らなければならないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る