第二章:仙術と心の旋律と

第06話:紫陽花の朝に

 陽光が薄い朝ぎりをほどき、藍天ランティエン酒家の中庭に咲きほこる紫陽花あじさいに宿る朝つゆに、宝石のような輝きを与えている。それは、昨日、私の心の中に芽生えた希望のように、小さいけれど、確かな輝きを放っている。


「今日は、きっといい日になる」


 そう自分に言い聞かせ、私が竹ぼうきで中庭を掃除していると、急に私の耳に飛び込んでくる李叔叔おじさまの声。


「おーい、雪梅シュエメイ。ちょっと来てくれないか?」


 その呼びかけに、私は「はーい」と明るく返事をする。そして「何かあったのかな?」と、漠然ばくぜんと考えながら足早に店の中へと向かう。


 そして店内に入って、李叔叔おじさまの声の元へと急ぐ。すると、そこは普段使用することのない客室で、そこにいるのは李叔叔おじさま杏音シンインさまで……。


「ど、どうしたんですか、杏音シンインさま。まだ辰時の中午前八時を過ぎたばかりですよ? いつもお寝坊さんなのに、どうして……」


 あまりにもの意外な光景に、思わずそんな一言を告げると、苦笑いを浮かべるのは杏音シンインさま。


「失礼ね、私だってちゃんと早く起きようと思えば起きられるのよ。……まったく、雪梅シュエメイの中の私って、どんなことになっているのやら……。って、そうだそうだ、これ見てよ、これ!」


 杏音シンインさまはそう言って私の手をとると、部屋の奥にある円卓へと導いてゆく。そしてそこにあったのは、信じられないくらい美しい旗袍チャイナドレス。私がいつも着ている麻や綿の生地ではなく、絹の、それも明らかに一級品とわかる綺麗きれい旗袍チーパオ


杏音シンインさま。こ、これは?」


「あ、これね。むかし私が着ていたものなんだ。今日の音楽宴で、雪梅シュエメイが着てくれたらうれしいなって思って持ってきたの……」


 そう嬉しそうに微笑むのは杏音シンインさま。そして、それを私にあてながら、「似合う似合う」と満足そうにうなずいている。


「ちょ、ちょっと杏音シンインさま。さすがにこれは……、恐れ多いです……」


 でも、そんな笑顔の杏音シンインさまに、私が言えたのはこの一言だけ。


 だってそれは、真っ白な絹地に、すみ絵のような繊細な梅の花が描かれた七分袖の旗袍チーパオであって、まるで雪の中に咲く梅の花のように清楚せいそで気品に満ちた旗袍チーパオであって、とても私と釣り合うとは思えなかったのだから……。


「大丈夫だって! 雪梅シュエメイおねぇちゃんならきっと似合うよ!」


 そのとき急に私の背後から聞こえてくる可愛い声。


 あわててその声の方に視線を向けると、そこにいたのは劉新リウシンくん。満面の笑みを浮かべている劉新リウシンくん。


「あと、これも雪梅シュエメイおねぇちゃんに!」


 そう言って、劉新リウシンくんが手渡してくれたのは、淡い緑色の綺麗きれいかんざし


「ちょっと待って、劉新リウシンくん。これって翡翠ひすいじゃない。ど、どうしたの? こんな高価なものを……」


 そんな私の戸惑いに、「これは高価な硬玉こうぎょくじゃなくて、軟玉なんぎょくなんだから気にせずに使ってよ」と返す劉新リウシンくん。


劉新リウシンくん、私、そういうことを言ってるんじゃないの。軟玉なんぎょくだって翡翠ひすい翡翠ひすいなんだから、決して安いものじゃない。気軽に手に入るものじゃない。私はそう言ってるんだよ?」


 そう取り乱す私に対し、劉新リウシンくんは照れくさそうに頭をかく。


「今朝ね、今日の迎暑節の音楽宴に雪梅シュエメイおねぇちゃんが出るって聞いたんだよ。だから俺たち、必死にお金を集めて、さっき買ってきたんだよ。俺たちにいつもご飯をくれる大好きな雪梅シュエメイおねぇちゃんにって……」


 その劉新リウシンくんの言葉を聞いたとき、私は思わず言葉につまる。そしてすぐに下を向いてしまう。自然と涙がこぼれ落ち、それを隠そうと必死になる。


 でもそんな必死さも、杏音シンインさまの一言で、すべてが台無しになる。


「こら、劉新リウシン。女の子を泣かすんじゃありません」


 そんな杏音シンインさまの言葉に、「ごめんなさい」と照れくさそうに返事をする劉新リウシンくん。そして矢継ぎ早に言葉を続ける杏音シンインさま。


「はいはい、これから雪梅シュエメイは着替えないといけないんだから、男たちはさっさとこの部屋から出ていった、出ていった」


 杏音シンインさまが、明るい声でそう言葉を重ねると、李叔叔おじさまは「じゃあ行こうか、劉新リウシン」と言葉を残して部屋の外へと出ていった。



「店主さま、劉新リウシン、もう入ってきていいよ」


 杏音シンインさまは、扉の外で待つ劉新リウシンくんと李叔叔おじさまにそう声をかけると、すぐにその扉は開く。するとその瞬間、部屋の中に劉新リウシンくんと李叔叔おじさまの感嘆の声が響く。


雪梅シュエメイおねぇちゃん、見違えたよ。まるで仙女せんにょさまみたい……」


 劉新リウシンくんのそんな一言に、私は恥ずかしくなり、すぐに視線を外してしまう。


「そうでしょう、そうでしょう。せっかくだから、髪を後ろで大きく結ぶだけではなくて、長い束を何本か垂らしてみたの。劉新リウシンがくれたかんざしもいいところに刺してあるでしょ? さすが私よね!」


 杏音シンインさまは得意げに、何度もうんうんとうなずいている。そしてそれを見て、李叔叔おじさまはただ苦笑いを浮かべている。


 でもその瞬間、私は李叔叔おじさまが大切そうに絹の包みを持っていることに気がついた。


「李叔叔おじさま、それは?」


「あぁ、これかい? これはこの店に置いてある最高級の二胡にこさ。特別な時にしか使わないものなんだが、今日は雪梅シュエメイにとって一番大切な時だからな……」


 李叔叔おじさまはそう言って、絹の包みをゆっくりと開けてゆくと、そこにあるのは玉の如き二胡にこ紫檀しだんの深い色合いとあでやかな木目が、まるで生きているかのように輝く美しい二胡にこ。今まで見たこともない素晴らしい二胡にこ


「店主さま、これって、皇帝陛下にいただいたものじゃない?」


 驚いた顔でそう告げるのは杏音シンインさま。そしてその言葉に私はさらに驚いてしまう。だからとっさに、「さすがにそれは……」と応えてしまう。


「いいんだよ、杏音シンイン。どうせ今日の音楽宴は、俺みたいな庶民は応援すらできないんだ。だから雪梅シュエメイ、これを俺たちだと思って使ってくれないか?」


 そんな李叔叔おじさまの温かい言葉に、私の胸の奥に押し込めていた不安が、春の雪のように溶けてゆくのを感じずにはいられなかった。


 そう、まるで温かい光が心の中を満たしてゆくように、少しずつそれが温かくなっていくのを感じざるを得なかった。


 杏音シンインさまの美しい旗袍チーパオ劉新リウシンくんたちの気持ちが詰まった軟玉なんぎょくかんざし、そして李叔叔おじさまから預かった大切な二胡にこ


 そのすべてがすべて、私への想いが形になったもの……。


「ありがとう、みんな……」


 そんな温かい気持ちに私が応えることができたのは、この短い一言であった。いや、その一言さえ、ちゃんと言えたかどうか怪しかった。だって私の胸の中は感動でいっぱいで、そこに言葉が入る隙さえなくて……。


 そして、その時、藍天ランティエン酒家の中庭を渡る落ち着いた足音が近づいてきたかと思うと、それはやがて入り口へと辿たどり着く。


雪梅シュエメイ、迎えにきたぞ。準備はもう大丈夫か?」


 そんな朗らかな声と共に景明ジンミンさまは、颯爽さっそうと現れる。だから私は、みんなからの想いを胸に、小さく、でも力強く「はい」と返事をしてみせた。

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