第05話:届け、私の音

「店主さま、店主さま! 雪梅シュエメイ二胡にこはどうだった? どうだった?」


 目の前に張大人ダーレンが座っているにもかかわらず、杏音シンインさまはお構いなしだ。


 そして杏音シンインさまは嬉しそうに円卓の空いている席に私を座らせると、「ちょっと待っててね」と言葉を残し、軽やかな足取りで他の席へと椅子を取りに行ってしまう。


 残された私は、張大人ダーレンの冷ややかな視線を感じながら、手元の袖をきゅっと握りしめる。明るい杏音シンインさまが去った後の円卓には、当然、お世辞にもよいとは言えない重い空気が漂っている。


「おい、店主!」


 ふいに、そんな重苦しい雰囲気を破るのは張大人ダーレン


 その声には明らかな怒りが含まれている。そしてそれは声だけじゃない。その目も怒りに震え、顔は朱に染まっている。


「さっきのあの娘の演奏はなんなんだ。仙術のない音楽なんて聞いたことないぞ。いいか、俺は国事である迎暑節の音楽宴で演奏できる楽士を探しているといったはずだ。それなのに、よりにもよって……。いいか、お前たちは神聖なるジン朝の音楽を侮辱ぶじょくしたんだぞ。それ相応の罰は覚悟してもらうからな!」


 張大人ダーレンはそう大きな声を張り上げて、李叔叔おじさまに詰め寄った。しかし李叔叔おじさまは、ただ黙って歯を食いしばり、その罵倒にただ耐えている。そしてその怒りの矛先は、李叔叔おじさまにだけにではなく、私にも向いてくる。


「おい、おまえ! あの酷い曲はなんなんだ。我らが帝国を象徴する山河を渡る風や皇帝陛下の臣民を想う深い気持ちも何も感じることができない、おおよそジン朝の音楽とは思えない、あの自分勝手な音楽はなんなんだ。俺はそう聞いているんだ!」


 そんな張大人ダーレンの言葉に対し、私は小声で「ごめんなさい」というのが精一杯であった。しかし李叔叔おじさまは、そんな私の前に右手を出して、必死に守ってくれる。


「張大人ダーレン、この娘にここで二胡にこを弾いてくれと頼んだのは私です。非はすべて私にあります。この娘は自分ができる最高の音楽を演奏した。ただそれだけのことです」


 そんな李叔叔おじさまの信じられない言葉に、私は思わず絶句する。


「でも、李叔叔おじさま……」


 そう私が言葉を続けようとしても、李叔叔おじさまは「いいんだ、これでいいんだ」と小さくつぶやくのみ……。


 その瞬間、私の胸は氷の刃が突き刺さったかのように鼓動を止める。体中の熱という熱が奪われ、冷たい感覚が全身を包みこんでゆく。しかしそんな私と李叔叔おじさまを救うかのような明るい声。


「あら、張くんもしばらく見ない間に随分と立派になったじゃない」


 その恐ろしい一言に慌てて振り返ると、そこにいたのは他の円卓から持ってきた椅子に腰を掛け、大胆不敵な微笑みを浮かべる杏音シンインさま。


「お、おい。杏音シンイン……」


 ひたいに浮かぶ冷や汗をぬぐいながら、杏音シンインさまを必死にいさめる李叔叔おじさま。しかし杏音シンインさまは、屈託のない笑顔で、遠慮なんてまったくすることなく話を続けてゆく。


 そして杏音シンインさまは同じ円卓に座る兵士さまへと視線を向ける。すると黒色の長衣に身を包んだその兵士さまは、鼻筋の通った端正な顔立ちと、鋭い眼光を放つ切れ長の目を杏音シンインさまに向ける。


「で、景明ジンミンさまはこの娘の音楽、どう思ったの?」


 その言葉に、小さくため息を返す景明ジンミンさま。


「ほんと杏音シンインは何も変わらないんだな。あれだけのことがあったのに音楽に対しては……」


「私のことはどうでもいいの」


 杏音シンインさまはそう言って、景明ジンミンさまに顔をぐっと近づける。


「ね、どうだった? どう思った? この娘の音楽」


 そんな杏音シンインさまの勢いに押され、景明ジンミンさまはにわかに視線を外して、もう一度、大きなため息をつく。


「大丈夫。この娘の音楽は最高だった。あの頃と何も変わりはしない。こんな素晴らしい音楽を否定できるほど、私は厚顔無恥ではないよ」


「それじゃあ……」


「あぁ合格だ。迎暑節の音楽宴には雪梅シュエメイに出てもらうことにするよ」


 景明ジンミンさまはそう微笑んで、私に優しい視線をくれる。その瞬間、杏音シンインさまは席から立ちあがると、両の拳を天に向ける。そして私を背中からきつく抱きしめてくれる。


「やった、やったよ。雪梅シュエメイ、おめでとう。本当におめでとう!」


 そのとき私の肩に冷たいしずくが落ちる。振り返ると、杏音シンインさまの瞳から涙があふれている。


 そして、そのあと私の体にじんわりと広がってゆくのは杏音シンインさまの優しいぬくもり。それは私の心を少しずつ温かくしてゆくと、瞳の奥も熱くなってゆく……。


「しかし、景明ジンミンさま……」


 その決定に不満の声をあげるのは張大人ダーレン。その声には焦りがにじんでいる。


「仙術で奏でる神聖な旋律こそ、我がジン朝が誇りとする音楽です。こんな仙術のない音楽を国事で扱うなんて前代未聞です。こんな音楽をえある迎暑節の音楽宴に出したら、今までこの国を築き上げてきた先人の怒りを買うことは間違いありません」


 そんな反論に、大きなため息で返す景明ジンミンさま。


「そうだな。この雪梅シュエメイの音楽の素晴らしさがわからないような人間が音楽宴を取り仕切っていることは確かに前代未聞かもしれないな。……いや、張、お前は優秀な男だ。たぶん疲れているだけなのであろう。杏音シンインが誰であるかもわからないのだから……」


 景明ジンミンさまは、そう意味深な言葉を告げると、張大人ダーレンの肩を優しく叩く。


「今まで多くの業務を任せすぎてすまなかった。今日から一週間、休暇を与えるから迎暑節の音楽宴は後任にまかせてくれればいい。そして今日はご苦労だった」


 景明ジンミンさまは張大人ダーレンにそう告げて、退席をうながした。しかし不満そうな表情を浮かべ、反論しようとする張大人ダーレン


「すまない、張、これは俺が言い過ぎた。本当にすまない。ただ、これから明日の音楽宴にむけて、杏音シンイン雪梅シュエメイと色々つめていかないといけないんだ。時間もあまり残されていない。申し訳ないが、ここは俺を立ててくれないか?」


 景明ジンミンさまは優しく、しかし冷たく微笑みながら、張大人ダーレンに視線を向ける。すると張大人ダーレンは、その顔に失意を隠すこともなく大きくうなだれて、「小娘、覚えておけよ」と吐き捨てると、不機嫌そうに店の外へと出ていった。

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