第04話:その夢と、その現実と

 赤茶色の陶器の油灯ゆうとうが揺らめく光を放ち、酒に酔ったお客さまたちの顔を赤く照らす。桂花陳酒の甘い香りと煙草の辛みが混じり合い、むせ返るような空気が店内を漂っている。


 そして聞こえてくるのは、高笑いや嬌声きょうせい、食器の触れ合う音……。聞きなれた音たちが、私の耳に心地よく響く。


 そんないつもの藍天ランティエン酒家の雰囲気の中、私は飾り気のない麻の長衣に身を包み、隅にある演奏席で二胡にこを片手に出番を待っている。


 磨き上げられた二胡にこの表面が、手のひらに冷たく滑らかな感触を残し、深呼吸をするたびに動く衣の粗い質感が、肌に心地よい緊張感をもたらしてくれている。


「大丈夫だよ、雪梅シュエメイ。ちゃんとそばにいてあげるから」


 そう優しく話しかけてくれるのは杏音シンインさま。


 しかし私が気になるのは奥の席。張大人ダーレン、李叔叔おじさま、若い黒色の長衣を着た男の人……、って、あれ? あの方は誰なんだろう。兵士さまだというのはわかるんだけど、私が今までみたことのある兵士さまとは印象が全然違う。落ち着いたたたずまいというか……、別の意味でこの酒家には似つかわしくないというか……、うーん、張大人ダーレンの護衛の方なのかな?


雪梅シュエメイ、ちゃんと聞いてる?」


「あ、はい。杏音シンインさま」


 そのとき急に耳に入ってくるのは杏音シンインさまの声。その声を聞いて私はすぐに我に返る。


「ほんとうに大丈夫? 雪梅シュエメイって、なんというか、ぼぉーっとしてる所があるというか、どこか抜けてる所があると言うか……。ま、とにかく重圧をかけるつもりはないけれど、雪梅シュエメイが迎暑節の音楽宴に出られるかどうかがここで決まるんだから、ちゃんといつも通りに弾いてもらわないと、私が困っちゃうというか……」


「え、杏音シンインさまが困る?」


 そんな意外な一言に、私は思わず面をくらってしまう。


「あははは、まぁ、いいじゃない、そんなことは……。と、とにかく、いつも通りに弾ければ大丈夫だから、自信をもって、ね」


 そう言って話題をそらす杏音シンインさま。私はなんだか釈然としなかったものの、「はい」と素直に返事をすることにする。


 この会話で少しは落ち着けた気はするけれど、失敗したらどうしよう……。そんな不安が私の中をよぎる。


 お役人さまを怒らせてしまったがため、理不尽な目にあった庶民はたくさんいる。いや、問題はそこじゃない。私だけだったらともかく、私を拾ってくれた李叔叔おじさま二胡にこを教えてくれた杏音シンインさまには迷惑をかけられない。


 だからこそ、張大人ダーレンだけは怒らせてはいけない。そんな気持ちが胸の中で渦巻いて、私の喉は極度に乾く。


 でもここで認めてもらえれば音楽宴に出ることができる。そこで優勝すれば夢である宮廷楽士にも手が届く。そんな希望が暗闇に差し込む一筋の光のように私を照らす。けれども失敗すればすべてを失う。その現実が私に重くのしかかる。


 そんな希望と不安が波のように交互に押し寄せて、私は思わず眩暈めまいを覚えてしまう。呼吸は浅くなり、指先がわずかに震えてしまう。しかし時間はそんな気持ちと関係なく一定で進み、いよいよ二胡にこを演奏する時間が来てしまう。


 ダメだ、こんな気持ちじゃ演奏できない。頭は真っ白だし、足もすくんでいる。そんな絶望に心が支配されそうになった時、ぎゅっと私を抱きしめてくれる杏音シンインさま。


 そのぬくもりは徐々に私の中に広がってゆき、硬直していた私の体がほぐしてゆく。そしてその瞬間、私の中に小さな勇気の炎が灯る。動悸は激しいままだけど、呼吸だけは少しずつ整ってゆく。


「ありがとうございます、杏音シンインさま。もう大丈夫です、私、がんばれます」


 そうつぶやいて、私は杏音シンインさまに笑顔を向ける。そして大きく深呼吸をして、落ち着きを取り戻そうと必死になる。


 今、笑顔は震えているかもしれないけれど、演奏が終わったら心から笑えるようにしよう。だから、今、やれることを全力でやってみよう。何度もそう自分に言い聞かせ、私は静かに椅子にすわる。


 そして背筋を伸ばし、ふともも二胡にこをのせる。それはいつもの二胡にこのはずなのに、ずしりと重く感じてしまう。まるで不安や恐怖が楽器に宿ってしまったかのように感じてしまう。


 しかし私は心を決意で満たし、震える手で、ゆっくりと弓を弦にかける。心臓の鼓動が、ごうごうと耳に響く。


 そして弓を引いたその刹那、かすかな振動とともに二胡にこは小さく、はかなげに音を紡ぎはじめる。それは次第に柔らかに流れ出し、まるで絹のように空気を撫でてゆく……。


 その旋律は深い憂いと優美さを兼ね備え、小さく水面を揺らす風のように繊細に音楽を紡いでゆく。まるで湖に投げ込まれた小石が描く波紋のように広がってゆく。そして余韻を残しながら、静かに夜の空気の中へと溶け込んでゆく……。


 しばらくのち、私は大きな吐息と共にその演奏を終える。しかし沸き起こるのは数人の気まぐれな拍手。目に入るのは、酒家の隅で退屈そうにあくびをするお客さま。そして私を襲うのは「仙術を使わないとか舐めてるのか?」という怒号。


 そんな反応に私は心が潰れそうになる。しかしすぐ横で大きな拍手をくれるのは杏音シンインさま。その瞳にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。その姿をみて「ありがとうございます」と頭を下げたものの、今の私にはそれが精一杯。だって私の中で何かが今にも崩れそうなのだから……。


 すると杏音シンインさまは、私の手を引っ張って「さぁ、店主さまがいる円卓に行こう」と言い出した。その言葉に私は思わずうなずいてしまう。


 しかし私は恐ろしい現実に気がついていた。これから向かうであろう円卓で、張大人ダーレンが怒りに満ちた表情を浮かべていることを……。杏音シンインさまは私の音楽を認めてくれたかもしれないけれど、張大人ダーレンにそれが届かなかったことを……。


 これからきっと何か恐ろしいことが起きる。そんな暗い予感が私の体を鉛のように重くする。杏音シンインさまが手を引いてくれるから足を前に出せていたものの、その手が離れた瞬間、きっと私はその場に座り込んでしまう。そんな確信が私の全身を包む。


 それが証拠に、私の足はすでに震えはじめていたのだから……。

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