第03話:夢への助走

 子供たちが去り、張大人ダーレンも立ち去った店内で、私は竹ぼうきを手に黙々と掃除を続けている。そんな静まり返った店内に、竹ぼうきが床を掃く音だけが、ただ響く。


「李叔叔おじさま、ごめんなさい。私のせいで大変なことになってしまって……」


 沈黙に耐えきれず、私は思わずそう声を出す。しかしその震え声は、ただむなしく店内に溶けてゆくだけで……。


 そんな無意味な言葉を紡ぎながら、私は肩をすくめ、申し訳なさそうに李叔叔おじさまを見つめている。


 しかし店内を覆うのは重い沈黙だけ、どうしようもないという虚無感だけ。そしてそこに産み落とされるのは、極度の諦観ていかん……。


「大丈夫だよ、雪梅シュエメイ。こんな商売していれば、役人にちょっかい出されるなんて珍しいことではないさ……」


 長い沈黙の後、李叔叔おじさまは、ぼそりとそうつぶやいた。


 その声色は、確かに穏やかなものであったものの、だからこそ私の胸はかえって痛む。その優しさに応えなければと思えば思うほど、どんな言葉を返していいのかが分からない。


 だから私は竹ぼうきを握る手に力を込める、そして黙々と床を掃き続ける。しかしそこにあるのは重たい空気、ただ彷徨さまようだけの無機質な音……。


「おはようございます――。って、あら、みんなどうしたの?」


 そんな時、ふと入り口から聞こえてくる杏音シンインさまの明るい声。その声は、店の空気を少しだけ軽くはしたものの、李叔叔おじさまの表情は深刻なまま……。


杏音シンイン、ちょっと……」


 しばらくの沈黙の後、なにかを決したかのように、李叔叔おじさま杏音シンインさまにそう話を切り出した。もちろんその声は深く沈んでいたし、歯切れがいいと言えるものではない。


 だから私は、そんな雰囲気に耐えられるわけもなく、掃除をする場所を大食堂から個室へと変える。するとそこには窓から差し込む初夏の日差しが、薄いほこりを金色に輝かせている。


 そしてその光景は、少しだけ私の心を温めてくれる。漂うほこりの中で、柱に立てかけてある絵画が静かな光を帯びる。


雪梅シュエメイ


 掃除をする手を休め、窓辺の光に見とれていた私の背後から、ふいに聞こえてくる杏音シンインさまの声。


「結局、あの食事会、まだ続けていたんだね……」


 杏音シンインさまは、ゆっくりとそう言葉を続けながら、円卓の前の椅子に腰を下ろす。すると桂花の香りをまとったそのすそが優雅な弧を描く。


「申し訳ありません。私も李叔叔おじさまに拾われるまでは、食べるものにすら困っていましたので、つい……」


 そんな私の言葉に、杏音シンインさまはなぜか困ったような表情を浮かべると、その高く盛り上げたおだんごに刺した翡翠ひすいかんざしを軽くぽんぽんと叩く。するとその仕草に合わせて、ひたいの両脇に垂れ下がった細い髪束が華麗に揺れ動く。


「ま、それはそれでいいことにしておきましょう……。でも、食事会をしたってことは、子供たちの前で二胡にこを弾いたってことでしょ。で、どうだった? 評判よかったでしょ?」


 杏音シンインさまは、彫刻家が丹精込めて彫り上げたかのようなその高い鼻先を私に向け、花びらのように柔らかな唇からそう言葉を紡ぐ。


 そして私は「そ、そんなことないですよ……」とだけつぶやいて、少しだけ視線を逸らす。しかし杏音シンインさまは、そんな私に対し、微笑みを絶やすことはない。


「そっか……。雪梅シュエメイがここに来て、私から二胡にこを習い始めてからもう一年になるのか……」


 急に話題を変えて、そんなことを言い出す杏音シンインさま。そして、その切れ長の瞳を窓の外に向けたかと思うと、懐かしむように言葉を継ぐ。


「で、どう? 宮廷楽士になって、年始の宮廷音楽宴に出るという夢は叶いそう?」


「そ、そんな、無理ですよ……」


 杏音シンインさまのその問いに、私は両手を前に出し、大きく左右に振って否定してみせたものの、杏音シンインさまは不思議そうな顔を浮かべている。


「そんなことないと思うんだけどな……。雪梅シュエメイに足りないのは自信だけだと思うんだけどな……」


「そういう話ではないんです、杏音シンインさま。私の二胡にこの技術はまだまだですし、仙術も使えませんし……。夢は、あくまでも夢なんです……」


 自信なく私がそう返すと、杏音シンインさまの表情が一瞬で変わる。


「はぁ、仙術……。またそれ? 雪梅シュエメイがいう仙術ってこれのことでしょ?」


 大きなため息とともに杏音シンインさまはそう言って、右手の親指と中指を合わせてパチンと鋭い音を響かせると、その瞬間、空気は一変する。


 鮮烈な山椒さんしょうの香りが部屋中を満たし、舌が痺れるような錯覚が私を襲う。そして、食欲をそそる羊肉の芳香が立ち昇ってくる。


 目の前には、湯気立つ火鍋の幻影が浮かび上がり、その鍋には、煮えたぎる深紅の肉汁に唐辛子と山椒さんしょうが舞い踊り、艶やかな羊肉と色とりどりの野菜が整然と並べられている。


 そんな現物と見まごう幻影を目の当たりにして、私の呼吸は思わず止まる。


「あのねぇ、雪梅シュエメイ。こんな自然界のどこにでもあるタオを使った幻なんかに、何の価値があるの?」


 小さないら立ちを含んだ声と共に杏音シンインさまは軽く右手を振る。その瞬間、香りも幻も消え失せて、そこにはいつもの開店前の静けさが戻る。


「これだけはハッキリ言っておくけど、雪梅シュエメイ二胡にこは宮廷楽士として立派に通用するものだよ。この私が言っているんだから間違いない。信用してくれてもいいんだよ?」


「でも……」


「だから今度の迎暑節の音楽宴。大丈夫だよね?」


 そんな不意をつくような杏音シンインさまの一言に、私は思わず「は、はい」と答えてしまう。そしてすぐにその言葉の重みを理解する。


 迎暑節の音楽宴に出るということは、今日の夜、張大人ダーレンの前で二胡にこを演奏するのは、私ってこと?


「ちょ、ちょっと待ってください、杏音シンインさま。今日、張大人ダーレンが聞きに来るのは杏音シンインさまの二胡にこのはずです。私の二胡にこではありません。それに、仙術を使えない私じゃ音楽宴に出ることなんて無理ですよ!」


「え? でも雪梅シュエメイ、さっき『はい』って言ったよね?」


 その杏音シンインさまの言葉に、私は思わず「えっ……」と絶句してしまう。


「大丈夫、大丈夫。店主さまもそれでいいと言ってくれたし、私が責任を持つから……、ね。それに迎暑節の音楽宴の当日、私はどうしても宮廷に行かなければならないの。外せない用事があって……」


「宮廷?」


「そうそう、宮廷。だから雪梅シュエメイが演奏するしかないじゃない。あ、それと今日の夜の演奏は、雪梅シュエメイが作曲した曲じゃないとだめだよ。約束だからね!」


「ちょ、ちょっと待ってください、杏音シンインさま……」


 必死にそう反論したものの、私のそんな言葉を杏音シンインさまはまばゆいばかりの笑顔でさえぎってくる。そして何事もなかったかのように話題をそらしてくる。


「ところで雪梅シュエメイ。この三枚の板のうち、どれが一番好き? 教えてくれない?」


 そう言って杏音シンインさまは、かばんから琥珀こはく色に輝く三枚の板を取り出して、嬉しそうに円卓の上に並べだす。


 そのとき私は確信する。


 あぁ、もうダメだ。ここまで話をそらされてしまっては、もう話を戻すことなんかできやしない、と。


 はぁ……、杏音シンインさまはいつもそうだ。こうやって、なし崩し的に色々なことを決めてしまう。でも……、不思議と嫌な気分ではない。


 だから私は毎回思い知らされるのだ。


 一人の人間として、私は杏音シンインさまを心から慕っているのだということを……。

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