第02話:招かざる客人

「これはこれは、張大人ダーレン、お久しぶりです。本日はいったいどういったご用向きで……」


 李叔叔おじさまの声から温かみが消え、引きつった笑みが顔に貼りついている。


「どうしたもこうしたもない。先程まで二胡にこを弾いていたものを今すぐここに連れてこい、そう言っているのが聞こえなかったのか?」


 激しい怒号が店内に響き渡り、思わず私は二胡にこを抱きしめる。すると楽器からかすかな温もりが伝わってくる。


 そしてその温もりは、まるで遠い故郷の記憶のように懐かしく胸の中へと染み入ってゆくものの、私にその記憶はない……。


「先程の二胡にこといいますと?」


 李叔叔おじさまはそう言葉を絞り出しながら、私に軽く目配せをする。その意図をみ取って、私はすぐに二胡にこを壁に立てかける。


「とぼけるのもいい加減にしろ! さっきまでここで二胡にこを弾いていた者がいるだろう。ジン朝の音楽とは明らかに違う、あの曲を弾いていた楽士をここに連れてこいと言っているんだ!」


 そんな張大人ダーレンの怒号に、私は息が詰まりそうになる。鉛のように重い空気に押しつぶされそうになる。心臓は激しく脈を打ち、逃げ出したい衝動に駆られてしまう。


 でも、そんな私を心配するかのようにじっと見つめてくれる劉新リウシンくん。眉間みけんしわを寄せ、唇をぎゅっとみ締めながら、私を安心させようと精一杯の笑顔を向けてくれている。


 そして劉新リウシンくんは小さく頷いて、子供たちの手を一人ずつ取りながら店の外へと導いてゆく。その姿を見て、私は心に小さな安堵あんどを宿す。


「あぁ、さっきまでここで二胡にこを演奏していた楽士のことですか? それなら子供たちと一緒に出ていきましたよ、張大人ダーレン。今すれ違ったじゃありませんか?」


 いつの間にか私と李叔叔おじさま、張大人ダーレンしかいなくなった店内で、李叔叔おじさまは必死に笑顔をつくり、張大人ダーレンにそう答えている。


 すると張大人ダーレンは、困惑した表情を浮かべ、「そ、それは……」と言葉に詰まっている。


「いやぁ、私達も困っていたんですよ。子供たちに飯を食わせていたら、急に旅の楽士が入ってきましてね。『金がなくて困っているから、ここで雇ってくれ』と言うんですよ」


 矢継ぎばやにそう言葉を紡ぎ、張大人ダーレンが話を切り出すきっかけを与えない李叔叔おじさま


「この店には、もう専属の楽士がいるから必要ないと断ったんですが……。どうしても一曲だけは聞いて欲しいと言うんですよ。だから一曲だけという約束で弾かせてやったんです。そしたらまぁ、あんな斬新奇抜な旋律を奏でていくものですから、反応に困ってたという訳でして……」


 李叔叔おじさまは、そう話を続けながら、軽く頭をかく。


「だから張大人ダーレン、本当に助かりました。張大人ダーレンが来てくれたおかげで、あの楽士を追い出すきっかけができました。まったく、迎暑節が近くなると、ああいうやからが増えてくるから本当に困るんですよ……」


 そんな李叔叔おじさまの言葉は、藍天ランティエン酒家に少しの沈黙と安堵あんどをもたらしてゆく。そしてそんな空気の中、私は「もう勘弁かんべんしてください」と心の中で何度も何度も繰り返す。


 しかし張大人ダーレンは、李叔叔おじさまの説明に困った表情を浮かべると、軽く首をひねり、深いため息を繰り返す。その様子を見て、私の心は少しのざわめきを覚えてゆく。


「すまない店主、そういう話ではないんだ……」


 張大人ダーレンは深刻な面持ちでまゆを寄せ、ポツリとそうつぶやいた。


 そして、何かを決意したかのように李叔叔おじさまの顔を見つめると、意外なことを口にし始めてゆく。


「実はもっと深刻な問題があってだな。明日の迎暑節のお祭りのことなんだが……。あ、そうだ、店主、一つ相談に乗ってもらえるだろうか?」


「なんなりと、私でできることであれば……」


 そんな李叔叔おじさまの返事に、張大人ダーレンは「ほっ」と小さく息をつき、警戒するかのように周りを見回して、声をひそめて話を続けてゆく。


「実は、迎暑節の目玉である音楽宴に欠員が生じて困っているのだ」


 張大人はそこで言葉を区切り、店の入り口に視線を向ける。そして誰かに聞かれていないかを慎重に確認する。


「知っての通り、この音楽宴は宮廷楽士の選抜試験も兼ねる大切な国の行事でな。皇族も直接関わるほどの国事でもある」


 その言葉を聞いた瞬間、李叔叔おじさまの表情が曇る。


「この行事での失敗は、我がジン朝の威信にも関わるし、天の怒りも買うかもしれん。だからそんな行事に欠員なんて出すわけにはいかんのだ。店主ならそれがわかるだろ?」


 張大人ダーレンは声をひそめながらも力強くそう言い切ると、李叔叔おじさまの顔が一瞬でこわばった。額には汗がにじみ、その視線は宙をさまよっている……。


 でも、そんな李叔叔おじさまとは対照的に、ますます真剣な表情を深める張大人ダーレン


「先程、ここで演奏をしていた旅の楽士程度の腕前でいいのだが……。って、待て待て、店主。さっきこの店にも専属の楽士がいるといっていなかったか?」


 そんな張大人ダーレンの言葉に、李叔叔おじさまの肩がびくっと震えている。その表情にはぎこちない笑顔が浮かび、ますます顔が引きつっている。


 しかし張大人ダーレンはお役人さま。そんなお願いを理由もなく断るのは不可能だ。だから李叔叔おじさまの顔は、苦虫をみ潰したかのようにゆがんでいるのだ。


「はい、確かにいるにはいますが……。ただ、張大人ダーレンが気に入るような楽士ではないと思いますよ?」


 そう苦しそうに、なんとか断ろうと必死に言葉を紡ぐ李叔叔おじさま。しかしその瞬間、張大人ダーレンの顔に今日一番の笑顔が灯る。


「いやいや、ある程度の実力があればこの際かまわない。この店で専属ができるほどの実力の楽士だったら問題ないであろう……」


 張大人ダーレンはそう言葉を続けると、なにかを考えているかのような仕草で一瞬目を閉じる。そして突然なにかを思いついたかのようにかっと目を見開いた。


「……って、そうだ。今日の夜、ここに二胡にこを聞きに来る。その楽士をその時までに用意しておくように!」


 そんな強引な一言に、李叔叔おじさまは無理矢理作ったとしか言いようのない笑顔を浮かべ、「わかりました」と短く応えてみせている。


 しかし店に残された沈黙は、まるで二胡にこの余韻のように、長く、重苦しいものであった。

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