響鳴の奏者 ―鳴玉弦歌―

まぁじんこぉる@中華音楽ファンタジ連載中

響鳴の奏者 ―鳴玉弦歌―

第一章:二胡を弾く少女

第01話:雪梅と二胡(にこ)

「おねぇちゃん、雪梅シュエメイおねぇちゃん、はやく、はやく!」


 六月の透き通るような朝の光が、石畳に散らばるつゆたちを水晶のように輝かせ、劉新リウシンくんの笑顔を優しく照らす。胸下まで伸ばした私の黒髪が、初夏の柔らかな風に吹かれて絹のように波打っている。


「わかった、わかったから、あまり手をひっぱらないで……」


 劉新リウシンくんのそんな言葉に必死にそう応えたものの、私の心臓は激しい鼓動を刻んでいる。


 朝市の喧騒けんそうが大通りに満ちあふれ、城壁向こうに見える翠月城ツイユエチョンを照らす朝陽が、首都・洛鳳ルオフォンに金色の輝きを注ぐ。屋台からは包子パオズを蒸す湯気と香りが立ち昇り、この街の一日の始まりを告げている。


「だ、大丈夫だよ、劉新リウシンくん。慌てなくてもご飯は逃げていかないから、ね」


 両肺が火を吐くような息切れを起こし、私はたまらず足を止める。しかし劉新リウシンくんはお構いなしで、私の手をぐいぐいと引っ張ってゆく。


「大丈夫だよ。おねぇちゃんの二胡にこも、俺、一応、楽しみにしてるから……」


 そんな劉新リウシンくんの素直な一言に、私は思わず苦笑い。


「ほらほら、早く行くよ」


「わかった、わかったから、もう少し、ゆっくりね」


 そう懸命に抗議をしたものの、私はそれが無意味であることをすぐに理解する。だからゼェゼェと息を切らしながらも、必死に劉新リウシンくんについてゆく。


 こうして、ようやく私たちは藍天ランティエン酒家へと辿り着く。肩で息する私とは対照的に、劉新リウシンくんは元気いっぱいだ。


 そんな様子に乾いた笑いを浮かべつつ、私は長年風雪に耐えてきたその朱色の門をくぐる。するとその瞬間、鼻腔びこうをくすぐる様々な料理の香り。


 香ばしい醤油しょうゆの匂い、ほのかに甘い烏龍ウーロン茶の香り。そして厨房から漂ってくるのは、熱々の豚肉の脂の匂い。


 その美味しそうな匂いに誘われるがまま入口の扉を開けると、そこにいたのは店主の李叔叔おじさま


雪梅シュエメイ、遅かったじゃないか? もうみんな待ちくたびれてるぞ」


 その声を聞いた瞬間、私の瞳に飛び込んでくるのは喜びいっぱいの子供たち。


 使い古された木製の円卓に並べられるのは、湯気を上げる包子パオズやおいしそうな焼き色がついた大根餅、彩り豊かな野菜が添えられた冷たいめん料理と小さく揚げられたかわいい春巻きたち……。


「さぁ、お前たち。毎月この食事会の料金を出してくれている雪梅シュエメイに大きな拍手を」


 李叔叔おじさまの明るい声と同時に湧き上がるのは大きな歓声。


「でも、料金の半分以上は李叔叔おじさまが……」


 そんな私のささやかな主張も、子供たちの歓声でかき消されてしまう。そしてそれをあえて聞こえないフリする李叔叔おじさま


「はいはい、お前たち、ちゃんと手を合わせて、お祈りしてから食べるんだぞ!」


 その一言に酒家は一瞬静まり返ったものの、すぐに賑やかさを取り戻す。そして「美味しい」と声をあげながら、一斉に料理をほおばり始める子供たち。


 そんな子供たちの笑顔を見て、私は自分の心の中にじんわりと温かいものが広がってゆくのを感じていた。だから私の口角も思わず上がってしまう。


 そんな幸せな気持ちを心に抱きながら、私は、ふと壁に立てかけてある二胡にこへと視線を向ける。


「子供たちは期待していないんだろうな……」


 そうぼそりとつぶやいて目を伏て、私は小さく息を吐く。そして心に意識を集中させてゆっくりと二胡にこを取る。


 その瞬間、私の全身にほんのり伝わってくる「ほっ」という不思議な感覚。音楽を奏でることができるという喜びより先に来る郷愁きょうしゅうの念……。


「じゃ、おねぇちゃん。これから二胡にこを弾いてみるから、食べながらでもいいから、ちゃんと聞いててね!」


 そんな一言に対して起こるのは、まばらな拍手。


「ほんと、みんな正直なんだから……」


 そう心の中でつぶやいて、私は二胡にこの弓を弦にあてる。左手の指で弦を優しく撫でて、ゆっくりと弓を引く。するとその瞬間、切ない弦の調べが藍天ランティエン酒家を満たしはじめる。


 その二胡にこが奏でる高音は、空気を切り裂くように鋭く伸び上がり、低音は、忘れかけた記憶を呼び覚ますように重たく響く。


 指先からあふれ出してゆくその音は、懐かしさと切なさが交錯する調べとなって、酒家全体の空気を震わせてゆく。


 だから私は褐色の瞳を静かに閉じて、二胡にこの織りなす音楽へその身をゆだねてみる。すると、子供たちのざわめきも、食器が触れ合う音も、すべてがすべて遠のいて、この世界に私と二胡にこが生み出す音色だけが残されてゆく。


 そして最後の音が時の流れの中に消えさった時、私はゆっくりと瞳を開ける。


 その瞬間そこにあるのは、水を打ったかのような静寂せいじゃく。ご飯を食べる手を止め、私を見つめている子供たち……。


 そんな独特の空気と視線に強い照れを感じてしまった私は、頬を火照ほてらせて、思わず下を向く。しかしそんな気持ちを知ってかしらでか、優しく拍手をしてくれる李叔叔おじさま。そしてそれに釣られるかのように、大きな拍手をくれる子供たち。


 そんな光景をつきつけられてしまっては、私の照れはただ増すばかり。だから私は、すぐにその場にいることさえ耐えきれなくなり、慌ただしく二胡にこを壁に立てかけようと椅子から立ち上がる。


 すると劉新リウシンくんが近寄ってきて、何も言わずに笑顔をくれる。そして「雪梅シュエメイおねぇちゃん、すごくよかったよ」と教えてくれる。だから私の口元からは、自然と安堵の笑顔がこぼれでる。


 しかしその瞬間、急に店の入り口から聞こえてくる騒がしい声。怒号ともとれる恐ろしい声。


「さっき二胡にこを弾いていたヤツは誰だ!」


 慌てて私が視線を向けると、そこには小太りな男性が立っている。そしてその深紅の絹の長衣が、藍天ランティエン酒家のすすけた壁に不釣り合いに映える。腰にきらめく翡翠ひすいの帯留めが質素な店内に緊張感を生む。


 次の瞬間、その男の鋭い視線が容赦ようしゃなく私を射抜く。この酒家を満たしていた穏やかな空気が、鋭利な刃物で切り裂かれたように乱されてゆく……。


 そして私の背筋は凍りつく。徐々に全身から血の気が引いてゆき、その後に続いてゆく体の震えに、私はただ耐えなければならなかった。

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