二日目
自分にあてがわれた部屋で目を覚ました。いつもの薬の効果か、足元が少しふらつく。
目を擦りながらデスクに置かれた冊子を読み、食堂の位置を確認する。部屋を出て、一階に降り、食堂に行く。パンとスクランブルエッグとスープの朝食を食べ、戻る途中ですれ違った職員に庭への行き方を聞いた。日中であれば庭への行き来は自由らしい。
部屋にも戻らず、庭へのドアを開ける。
まだ朝も早いから誰もいないと思っていたが、すでに先客がいるようだった。
彼女はベンチの端に深く腰をかけ、俯いている。
白いワンピースを着ている。手足は折れてしまいそうなほど細く、白い。髪は黒く長い。髪で彼女の顔をすっかり覆ってしまっている。ここでの生活が長いのだろうか。
「少年」
彼女は顔を上げずに言った。深く沈んだ、やや低い声だった。
「はい」
自分のことを指しているのは明らかだったので返事をする。
「今日が初めてだね」
「はい、昨日来ました」
「そう。ここにご新規さんが来るのは珍しいね」
「そうなんですか」
「そうだね。本当に久しぶりだ。まずは座りたまえよ」
「ええ」
彼女の横に座る。自然と視線も下になった。彼女はここで与えられている白いサンダルを履いている。自分は昨日と同じスニーカーだった。
「少年は」
「僕は……」
名前を名乗る。
「ここでは名前は記号みたいなものだからね、少年」
「あなたは」
「そうだな……」
彼女が顔を上げる。こちらの方を見ずに、天を仰いだ。目鼻立ちのはっきりした白い顔はもはや顔面蒼白といってもよいくらいだった。長い睫毛でまぶたを閉じ、その下には肌と対照的に墨を塗ったかのように深いクマがあった。年齢はどれくらいだろうか、自分には二十代後半くらいに見えた。
「私は『天使』。『時間の天使』だ」
「はあ」
天使、と自ら名乗った彼女は、ふぅ、と長い息を吐く。
「別に信じなくていい」
「いや、信じるとかそういうのでは」
「そう。信じるかどうかではなく、存在するかどうかだ」
どうにも要領を得ない言葉遣いで彼女は続ける。
「少年は、もし私にハイロウがあれば信じたかい?」
「ハイロウ」
「ほら、天使の頭にある、輪っかだよ」
細い右手を頭の上に持っていき、手首をそこで周回させる。
「ああ」
何かの宗教画を思い出す。誰の絵で、どんなタイトルだったかも思い出せない。もしかしたら、今浮かべているのもイメージでしかないかもしれない。その天使には確かに輪っかがあった。
「まあ、どうでもいいことさ。そういう姿もあくまで記号でしかない。外からどう見られるか、それは些細なことだ」
「そうですね」
それには少しだけ同意をする。
「わかるかい? それはいいことだ」
彼女、天使は口を緩ませる。
「その、時間、というのは?」
天使に話を合わせることにした。
「人類の進歩と調和」
「え?」
「昔の人はいいフレーズを考えついたね。我々は、まさにそれを見守っている。人類がどこへ行こうとしているのか。正しい方向か、間違っている方向か、間違っているのであれば、それを修正することも辞さない。それが我々、『時間の天使』に与えられた役目だ」
「我々?」
「そう、我々はいつでも、どこにでもいる」
「あなただけではない?」
「そう、たくさんいる。私は我々の一部だ。私だけに意思があるわけではない。我々で、一つだ」
天使が肯定する。
「修正するかどうかはどうしてわかるんですか?」
「それは、そうだな。道しるべを持っている。今風に言えば、ロードマップ」
「それは、どんな」
「少年は、いつまでここにいる予定だね」
話を逸らされたのか、天使が質問をする。
「あと数日、今週末には帰るつもりです」
「それじゃあ、続きはまた明日にしよう。午後には予定が詰まっているのだろう?」
「え、ああ」
左手にしている簡素な茶色い革バンドの腕時計を見る。自分に残った数少ない壊れていない持ち物の一つだった。その時計が、正午を指していた。
「あれ、もう昼?」
庭に入ったのはまだ九時前だったはずだ。あれから三時間も経っているのはどう考えてもおかしい。
天使が顔をこちらに向ける。
生気のない顔に不釣り合いな、力強い瞳で真っ直ぐと見つめてくる。その奥には無限が住んでいるように感じられた。
「少年の時間を少し動かせてもらった。『時間の天使』に与えられた権限の一つだ」
「そんな」
「信じるかどうかはどうでもいいことさ。少年はこれから昼食を取り、いくつかのつまらない作業をする」
「ええ、ああ」
面談は十三時だったか。
「少年に明日がまだあるのなら、またその貴重な時間をもらうことにしよう」
「……わかりました。はい」
「いい返事だ。最近はどうも刺激がなくてね、困っていたところなんだ」
天使が拳を握った右手を差し出す。
「手を」
天使に言われるがままその下に自分の両手を広げた。天使が手を開き、軽い感触が手のひらに乗る。
「これは?」
「天使は羽がつきものだろう?」
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