第32話 幸せな場所へ(第1部エピローグ)

 涼しい風が吹き抜ける午後。アリーセはエドゥアルトとともに神官たちが眠る墓所を訪れていた。亡くなった神官一人ひとりに花を手向けて安寧を祈る。


 そうして最後のひとり、ニコライ神官の墓の前でアリーセはしばらく佇むと、やがて白い水仙の花を静かに捧げた。


(──あなたを殺めたミカエル大神官は、昨日処刑が執行されました)


 そう報告して、もうひとつ礼を伝える。

 儀式の夜、眠り薬の効果が早く切れたのは、きっとニコライのおかげだったと。ニコライが大神官を信じないよう手紙で警告してくれたから、ミカエルへの疑心が残って、眠りの術に完全に掛からず済んだのだろう。


 儀式のとき、あの地下の部屋にニコライもいたのだと思うと胸が苦しくなる。ハンカチで目元を押さえたアリーセの肩に、エドゥアルトが優しく手を置いた。


「ニコライ神官は、大神官の悪事に気づいた功績で上級神官に昇級となるそうだ。それでも浮かばれることはないかもしれないが……」

「……私、ニコライ神官のことを忘れないわ」

「ああ、俺も君を助けてくれた彼に心から感謝している。彼の実家にも見舞いを送るつもりだ」

「ありがとう……」


 ニコライの墓に別れを告げ、アリーセとエドゥアルトが並んで歩き出す。先ほどはうっすらとした雲が空を覆っていたが、今は少し晴れ間が見え、明るい光が差してきた。


「……あなたの腕の怪我はもう治った?」


 アリーセが心配そうにエドゥアルトの腕を見る。アリーセを助けに来てくれたとき、ミカエルの術による光の鎖で締めつけられてできた両腕の傷。噴き出す血を見たときは頭の中が真っ白になったし、後遺症なく治るのかずっと不安だった。


 そんなアリーセを、エドゥアルトはなぜか満足そうに眺めながら、ぽんぽんと自分の腕を力強く叩く。


「ほら、このとおりもう平気だ。今までどおり剣も振れる」

「そう……よかった、安心したわ。でもどうして笑うのを我慢しているみたいな顔をしてるの?」


 エドゥアルトの不自然な表情を訝しく思いながら尋ねると、彼はさらに妙な笑顔を浮かべてアリーセを見返した。


「君が俺の心配をしてくれるのが嬉しくて。こんなことならもっと酷い怪我をしてもよかったな」

「もう、変なこと言わないで。本当に心配したんだから」

「……ごめん、ふざけて悪かった」


 叱られてしょんぼりしたエドゥアルトがなんだか子犬のように見えて、アリーセがくすりと笑う。


「ううん、あのとき私を助けに来てくれてありがとうね」

「当然だ。もっと早く行くべきだった。怖い思いをさせてすまなかった」


 エドゥアルトがアリーセの手を握る。大きくて少し骨張った力強い手に包まれると、どうしてこの手を離してしまったのだろうと後悔が湧いてくる。


「私こそずっとあなたを拒絶して本当にごめんなさい。あなたのためにも私のような邪魔者は去らなければと思って……いえ、違うわね。あなたに相応しくない立場になってしまった私が惨めで居た堪れなかったの」

「アリーセ……」


 何度も自分の境遇を呪った。幸せになれない自分を嘆いた。愛して愛されたいのに、そうできないことが悲しくて堪らなかった。


 でも、幾度もの危機を乗り越えてこうして無事に生きていられることを思えば、それ以上を願うのは贅沢なことなのかもしれないという気がする。


 醜聞まみれの未亡人でも、できることはあった。慕ってくれる人もいた。エドゥアルトが許してくれるなら、またあの孤児院に戻って働いたっていいのではないだろうか。きっと彼への恩返しにもなるはずだ。


「私、もう自分の境遇を受け入れるわ。これからは──」

「これからは、俺と一緒にいてくれないか?」


 アリーセの決意の言葉がエドゥアルトに遮られる。

 「一緒に」? それはどういう意味なのだろう?

 慎重になるあまり返事ができずにいると、エドゥアルトが穏やかな声で付け足した。


「君に婚約を申し込みたい」

「エドゥアルト、私は未亡人だし醜聞ばかりで──」


 公爵の相手には相応しくない、エドゥアルトの立場を悪くしてしまう。そう言おうとしたアリーセを再びエドゥアルトが遮った。


「いや違う。君とグランホルム伯爵の結婚は無効になった」

「えっ……?」


 予想もしなかった言葉に思わず絶句する。そんなことがあるだろうか。伯爵との婚姻は王家の承認を受けたもので、理由もなく無効になるなんて。


「どういうこと……? そんなことあり得るの……?」


 訳が分からず困惑するアリーセに、エドゥアルトがにやりと笑った。


「実は陛下に直談判していたんだ。君の不幸な結婚を無かったことにしてほしいと」

「へ、陛下に……!?」


 たしかに、公爵で国の英雄ともなれば国王陛下に直訴するのも簡単なのかもしれない。いや、それでも。


「さすがにすぐには説得できなかったが、大神官の事件で君の受けた悲惨な仕打ちが明らかになり、実の娘である王女も君に迷惑をかけたことを知って決心してくださったらしい。婚姻の書類に・・・・・・不備があった・・・・・・という理由で上手く処理してもらえることになった」

「そ、それじゃあ本当に……」

「ああ、君はもう未亡人なんかじゃない。誰のものでもない、アリーセ・フランセル侯爵令嬢だ」

「ああ……エドゥアルト……!」


 信じられない。伯爵との結婚が決まる前に人生を戻せたら。そう何度願ったことだろう。決して起こるはずのない奇跡だと思っていたのに、それがこうして叶うなんて。


 涙を溢れさせながらエドゥアルトに感謝の言葉を伝えていると、ふとあることを思い出した。


「そういえば、前にあなたと陛下が結婚について話していたってベルタ殿下が仰っていたのは……」

「ああ、この話だ。王女が誤解して君に話したとき、本当はすぐに訂正したかった。だが、まだ無効になると確定したわけではなかったから、ぬか喜びになれば君がまた傷つくと思って言えなかった」

「そうだったのね……」


 そこまで考えてくれていたなんて、それだけで胸がじんわりと温かく──……なったところで、もうひとつ今度は嫌なことを思い出した。


「あ、でも伯爵家からもらった五千万ゴールドは……」


 アリーセとの結婚と引き換えに、フランセル侯爵家はグランホルム伯爵家から莫大な金額を融通してもらった。それは紛れもない事実だ。つまり、婚姻が無効になったということは、受け取ったお金を返さなければならないということで……。


「返す必要はないだろう。グランホルムの血縁者は全員死んでしまったからな」

「たしかに、言われてみれば……」

「これで君を悩ませる問題はほぼ消えた。残りはあとひとつだな」

「え? あとひとつ?」


 他に何か問題などあっただろうか。懸命に頭をひねっていると、エドゥアルトがふっと笑ってアリーセの額を優しくつついた。


「一番の問題は君の実家だろう、アリーセ?」

「あっ……」


 エドゥアルトの言うとおりだ。今最大の問題は、アリーセの家族だった。事件後は今までエドゥアルトの厚意で公爵家の別邸を使わせてもらっていたが、いつまでも甘えている訳にはいかない。しかし、他に頼れる場所といえば今は実家しかないわけで、どうしようかと考えあぐねていたのだ。


 実家に帰れば、また徒労に終わる家計の管理をしなければならないだろうし、父ヨアキムが再び欲をかいてアリーセを利用しようなどと考えたら……。想像するだけで恐ろしい。


「これからどうすればいいかしら。実家を頼らないとなると、やっぱりまたエイデシュテッド孤児院に住み込みで──」

「それもいいが、もっといい解決策がある」

「もっといい解決策?」

「ああ」


 エドゥアルトが悪戯っぽく口角を上げた。そしてアリーセのエメラルドの瞳を柔らかな眼差しで見つめる。


「俺と一緒に公爵家で暮らそう」

「ええっ!?」


 思わず大きな声を出してしまった。でもそれも仕方ない。


「で、でも私たちはまだ正式な婚約者でもないのに……」

「関係ない。俺はもうタイミングを気にしたり、誰かの許可を得ようとして時間を無駄にしたくないんだ」


 エドゥアルトも紛争から帰還して以来、アリーセのことで後悔しない日はなかった。あのとき周囲のことなど気にせず、アリーセに愛を告白していたら。出征の前に婚約を申し込んでいたら。もう取り返しのつかない過ちを犯してしまった。そう思っていた。


 しかし、今あのときの愚行をやり直せる機会を手に入れた。ならば、今度こそ取るべき行動を取るまでだ。


「アリーセ、どうか俺の願いを叶えてくれないか?」


 アリーセがエドゥアルトの瞳をじっと見つめる。美しい琥珀色の瞳には真剣で切実な熱が宿っている。その熱が視線を伝って移ってしまったのか、アリーセの胸にも熱い想いが湧き上がってきた。


「……私も同じよ。もう後悔したくない。無意味な遠回りもしたくない。あなたの想いを素直に受け入れたい」

「それじゃあ……」

「ええ、いつでもあなたの一番そばにいたいわ。一緒に暮らしましょう、エドゥアルト」

「アリーセ……! ありがとう、愛している」

「私も愛しているわ、エドゥアルト」


 エドゥアルトが切れ長の目を嬉しそうに細め、アリーセを抱き寄せる。アリーセも幸せそうに微笑んで、エドゥアルトの頬に手を添えた。どちらからともなく二人の距離が近づいて、鼻先が触れ合い、唇が重なる。熱い口づけを何度も何度も交わしながら、アリーセとエドゥアルトはやっと手に入れた幸せを噛み締めた。




《第1部・完結》

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