第24話 疑念

 午前の祈りを終えたあと、アリーセは借りていた本を返却するため、神殿内の図書館を訪れた。二階のフロアが吹き抜けになっており、見上げると女神イルヴァとそのしもべの天使たちの美麗な天井画が目に入るのがアリーセのお気に入りだった。眺めるたびに敬虔な気持ちになれて、勉強にも身が入る。


 今日もいつものように天井を眺めて気持ちを新たにしたアリーセは、借りていた本を胸に抱えながら図書館のカウンターへと向かった。そうして馴染みの女性司書に本の返却の手続きをお願いする。


「こちらの返却をお願いします」

「承知いたしました」


 司書は老眼鏡を掛け直して、手早く本を確認すると、「はい、たしかに二冊ご返却いただきました」と返事をした。


「ところで、先ほど神学の新しい本が入ったんです。よろしければ借りられますか?」


 司書に尋ねられたアリーセが恐縮してかぶりを振った。


「いえ、新しい本でしたら神官の皆様がお読みになりたいと思うので私は大丈夫です。それに新しく借りる本も決まっていますので」


 今日は、先日ニコライ神官から勧めてもらった『聖典の行間』を借りようと思っていた。そのことを考えたとき、ふとあることが気になってアリーセは司書に尋ねてみた。


「そういえば、ここ一週間ほどニコライ神官様をお見かけしていないのですが、図書館には来られていますか?」


 前に外回廊で会話して以来、ニコライに出くわすことがなくなっていた。たまたま時間が合わないだけなのか、それともまだ外出の用事から戻っていないのだろうか。なんとなく気になって司書に聞いてみると、司書は「ああ……」と何か知っている素振りを見せ、思いがけない返事を寄越した。


「彼は神官を辞めたそうですよ」

「えっ! そうだったのですか……?」

「ええ。ニコライ神官様が借りられていた本を大神官様が返却に来てくださって、それで教えていただきました」

「そんな……」


 もしかして、前回会ったときに気まずそうだったのは、神官を辞めることに触れられたくなかったためだったのだろうか。


「まったく知りませんでした。お世話になったのに、最後のご挨拶もできなくて残念です」

「本当にねえ……。最近の若い人は、とは言いたくないですが、ここしばらく若い神官が立て続けに辞めてしまっているようでしてね。大神官様も嘆いていらっしゃいましたよ。天塩にかけて育ててもすぐ辞めてしまうのでは堪りませんよね」

「そうですね……。でも、皆さん止むに止まれぬ事情があったのかもしれませんし……」


 自分も、お世話になった孤児院を最後の挨拶もせずに辞めてしまった。ニコライ神官は無礼な人ではなかったし、何か理由があったのかもしれない。


「まあ、たしかに。人生いろいろありますものね」

「はい、いつかまたお会いできたときにご挨拶できればと思います」


 それからアリーセは司書に会釈すると、今度は新しく借りる本を探しに向かった。


(ええと、『聖典の行間』……。たぶんこの辺りにあると思うのだけど……)


 背表紙に書かれた題名を目を凝らして確認しながら、書架から書架へと移動していく。すると、四回ほど移動したところで目当ての本が見つかった。


(これね。結構古い本みたい)


 手に取ってページを数枚めくってみる。


(なかなか難しそうな内容だけど、私に理解できるかしら……)


 そのままパラパラとめくっていると、中から一枚の紙がひらりと舞い落ちた。床に落ちた紙をアリーセがしゃがんで拾い上げる。


(何かしら。誰かのメモとか?)


 紙に書かれている少々小さめの文字を何気なく読んだアリーセは、しかしその内容に驚いて目を見張った。



***


アリーセ様へ


この本を読まれるとき、もし僕がいなくなっていたら、一刻も早く神殿から離れてください。

大神官様を信じてはなりません。


神官ニコライ


***


「何これ……。どういうこと……?」


 神官を辞めたニコライからの警告の手紙。彼の筆跡は知っているため、これは本人からの手紙で間違いない。しかし、なぜこんな回りくどい方法で、このような危険な内容の手紙を書き記したのだろう。彼の意図が分からない。


「私はどうすれば──……」


 アリーセは真偽不明の手紙を握りしめ、そっとポケットにしまった。



◇◇◇



 その日の夜。アリーセは夕餉を済ませたあと、窓から夜空をぼんやりと眺めていた。いつもなら本でも読んでいるところだが、今夜はニコライからの手紙のことが気になって読書をする気にはなれなかった。


 この手紙を信じて、すぐに神殿を離れるべきなのだろうか。

 でも、離れたとしてどこへ行けばいい?

 もはや神殿以外に頼れる場所はないというのに。


 どうしても判断がつかず溜め息をこぼすと、ノックの音がしてミカエルの声が聞こえてきた。


「アリーセ様、今お伺いしてもよろしいでしょうか?」

「あ…………はい、大丈夫です」


 ニコライの警告を思い出して、やや躊躇ってしまったが、結局アリーセはミカエルの入室を許してしまった。


 部屋に入ってきたミカエルは何も変わったところはなく、普段どおりの様子に見える。今日も青灰色の瞳は美しく神秘的な光を湛え、目を合わせるとその輝きに吸い込まれそうになってしまう。


「本日は朝から王宮に用事がありまして。日中、顔を出せず失礼いたしました。何か問題などございませんでしたか?」

「いえ……いつも通りでした。祈祷も一人で済ませましたので大丈夫です」


 ニコライからの手紙のことは当然言えるはずもないので伏せておく。ミカエルは「そうですか」とだけ答えると、アリーセの空っぽの首周りを見て問いかけた。


「今日は水晶のペンダントをつけていらっしゃらないようですね?」

「あ……金具が壊れてしまったのでつけられなかったんです」

「そうですか。では私が直して明日お返ししましょう」

「ありがとうございます。お願いいたします」

 

 壊れたペンダントを渡すと、ミカエルが「ああ、たしかに壊れてしまっていますね」と呟いて袖口にしまう。アリーセは無言でその様子を眺めたあと、さりげない風にミカエルに尋ねてみた。


「今日、図書館の司書の方に聞いたのですが、ニコライ神官様がお辞めになったそうですね」

「ええ、実はそうなのです。彼とは親しくされていたのですか?」

「たまに図書館で会うくらいでしたが、ご挨拶できなかったのが残念だなと思いまして……」

「そうでしたか。彼は神聖力も高く才能がありましたので勿体なかったですが、彼の人生は彼のものですからね。無理やり引き止めるわけにはいきませんでした」

「あっ、そういえば、ニコライ神官様はゆくゆくは家業を継がなければならないかもしれないと仰っていました。お兄様がご病気とかで……。急にお辞めになったのは、そのせいだったのかもしれません」


 アリーセがニコライの家族について話をすると、ミカエルは深く頷いて同意した。


「ええ、そうなのです。女神への奉仕も大切ですが、家族を支えることも同じくらい大事ですから。彼ならきっと上手くやっていけるでしょうし、アリーセ様もあまりご心配なさらず」

「……そうですね。教えていただいてありがとうございました」

「いえ、それではアリーセ様のお顔も見られましたので、そろそろ失礼いたしますね」


 お辞儀をして部屋を出ていったミカエルの足音が聞こえなくなったのを確かめたアリーセは、冷や汗を流して床にへたり込んだ。


(ニコライ神官様にお兄様はいらっしゃらない。妹と二人兄妹だと仰っていたから……)


 つまり、ミカエルはアリーセに嘘をついたということだ。


(どうして? 私を安心させるため? それとも本当に、ミカエル様は信じてはいけない方なの……?)


 頭の中がぐちゃぐちゃになったまま、アリーセはしばらくその場から動けなかった。

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