第25話 罪悪感と額の熱

 翌朝、アリーセが祈りのために礼拝堂へ向かっていると、曲がり角の向こうから苛烈な怒声が聞こえてきた。


「そこを退きなさい! 王女の命令よ!」


 王女という言葉と、どこか聞き覚えのある声にアリーセの胸が早鐘を打つ。


(この声は第一王女のベルタ殿下……?)


 孤児院での嫌な思い出が蘇る。静謐であるべき神殿でもこのような大声で騒ぐなんて、今度は何が気に入らなかったのだろうか。状況が気になるが、顔を見られたらと思うと迂闊に覗き込むこともできない。仕方なく身を隠したまま耳を澄ませていると、続いてミカエルの落ち着いた声が響いてきた。


「ここを退くわけにはまいりません。どうかお引き取りください」

「あの未亡人アリーセ・グランホルムを私の侍女にしたいって言ってるのよ! 嫁ぎ先だって選んでやるわ! こんなところで閉じこもって祈るだけの生活より、よっぽどいい暮らしのはずでしょう!?」


 ベルタがそう叫ぶが、アリーセは予想外のことに頭が追いつかない。なぜベルタはアリーセを侍女にしたいなどと言い出しているのだろう? まったく理由が分からない。しかし、自分で尋ねるわけにもいかないため、黙ったまま聞き耳を立てる。


「アリーセ様に嫁ぎ先を? 王国法で婚姻後一年間は例外なく婚姻関係を解消できないと定められていることをご存知ないのですか? そもそも、亡きグランホルム伯爵との望まない結婚でアリーセ様は心に深い傷を負われています。再び結婚を強いられて喜ばれるはずがありません」


 ミカエルの断固とした声が廊下に響き渡る。王女の無知を咎めながら、アリーセの心の傷も慮る言葉にアリーセは喉の奥が熱くなるのを感じた。


「せ、籍を入れるのを一年後にすればいいだけでしょう!? 伴侶と離婚しないまま事実婚状態でいる男女なんていっぱいいるわ……!」

「それは否定いたしません。ですが、なぜそこまでしてアリーセ様を結婚させようとなさるのですか? 殿下とアリーセ様の間に一体どのような関係があるというのですか?」


 ミカエルの問いに、一瞬ベルタが激しい怒りをほとばしらせたような気配がした。それからすぐさま怒声が飛ぶ。


「エドゥアルトが悪いのよ! あの男がわたくしを虚仮こけにするから、あの男の願いを踏み躙りたいの!」


 エドゥアルトの名前が出てきて、アリーセは思わず息を呑んだ。しかし、王女の言っている意味が分からない。


 エドゥアルトが王女を虚仮にしたとはどういうことだろうか。それに、エドゥアルトの願いは王女との結婚で、王女もそれを望んでいたはず。なのになぜ怒っているのか、なぜアリーセが巻き込まれているのかまったく見当がつかない。


 アリーセが混乱している間にも、ベルタとミカエルの言い争いは続いていく。


「いいから早くあの女を渡しなさい! 寄付金が欲しいなら言い値で払うわ! ねえ、アリーセ! あなたも聞こえているんでしょう!? 今すぐ出てきてわたくしについてきなさい!」


 ベルタの姿は見えていないのに、彼女の剣幕が恐ろしくて、まるで目の前で決断を迫られているようだ。


(ミカエル様はなんと仰るかしら……。王女殿下の命令だし、私を匿うより多額の寄付金が得られるほうが神殿にとってはいいはず……)


 実の家族だってそうだった。だからミカエルがベルタに従ったとしても仕方がない。自分には、誰かの欲望のための対価にされるくらいの価値しかないのだから。しかし──。


「最後にもう一度申し上げます。どうぞこのままお帰りください」

「なっ……! あなた、わたくしが言ったことを聞いていなかったの!?」

「もちろん拝聴しております。ですが、私が寄付金ごときのためにアリーセ様を手放すとお思いですか? 見くびらないでいただきたい」

「は……?」

「怒鳴り声をあげて王女の地位を振りかざしても無駄です。この神殿で王族の権威は通用しません」


 ミカエルの言葉のあと、バシッと何かを叩くような音が聞こえた。それから、ベルタの恐ろしく低い声も。


「……どうやら、あの女の周りには無礼な男しかいないようね。いいわ、わたくしに不敬を働いたこと後悔なさい」


 その後、カツカツとヒールの音が遠ざかっていき、やがて完全に聞こえなくなった。アリーセは怖々曲がり角の向こうを覗き込み、ミカエルの後ろ姿しか見えないことを確認して彼のそばへと向かう。「ミカエル様」と呼びかけると、ミカエルはゆっくりとアリーセのほうを振り返った。


「ああ、聞こえてしまいましたね。騒がしくて失礼いたしました」


 そう言って微笑んだミカエルの顔を見たアリーセは、信じられない光景に目を疑った。ミカエルの左頬が打たれたように赤くなっていたからだ。


「ミカエル様、その頬はまさか……」


 さっきの音は、ベルタが扇子でミカエルの頬を打つ音だったのだ。孤児院でカイの頬を打ったときのように。


「あ……ああ、なんてことを……私を庇ってくださったばかりに……申し訳ございません……」


 やはり自分は周囲を不幸にしてしまう人間なのだろうか。女神に守られているはずの神殿でも、このような騒ぎを起こしてしまうなんて。


 ミカエルの痛々しい頬に思わず手を触れると、ミカエルは一瞬目を見張ったあと、愛おしむように自身の手をアリーセの手に重ねた。


「ご心配をありがとうございます。このくらい問題ございません。それより、怖い思いをさせてしまって申し訳ありませんでした。あなたには心穏やかに過ごしていただきたいのに……」


 ミカエルの言葉の端々から、アリーセへの気遣いが伝わってくる。


(ミカエル様は本当に私のことを心配してくださっている。やっぱりミカエル様は信じるに値する方だわ)


 ニコライ神官からの手紙で疑心暗鬼になってしまっていたが、ミカエルは一年前から親交のある相手だし、今までずっと優しく接してくれ、彼から傷つけられたことなど一度だってない。夫殺しの冤罪を晴らしてくれたのもミカエルだ。そんな恩人を証拠も無く疑うなんてどうかしていた。


 己の不甲斐なさに涙が滲んでしまうと、ミカエルが心配そうにアリーセの顔を覗き込んだ。


「どうなさったのですか?」

「いえ……また少し心が不安定になってしまっていたようです」

「ああ、私がペンダントを預かっていたせいかもしれません。金具は直しましたのでお返しいたします。少しじっとしていてください」


 ミカエルは袖口から水晶のペンダントを取り出すと、アリーセの首に手を回して金具を留めた。ミカエルに抱き込まれているような体勢になって、思わず赤面してしまう。


「はい、これでもう大丈夫ですよ」


 ミカエルの優しい笑顔、声、仕草に、堪えきれなかった涙が流れ落ちる。自分はどうしてこんなに温かな人を疑ってしまったのだろう。罪悪感で胸が苦しい。


「──ミカエル様は、どうして私にここまでしてくださるのですか? 私にそれほどの価値があるとは思えません」


 震える声でそうこぼすと、ミカエルはアリーセの涙をそっと指で拭って答えた。


「私はあなたの価値を知っています。あなたは誰よりも尊いお方。そのことをあなたにも分かってほしいと思っています」


 次の瞬間、ミカエルの唇がアリーセの額に触れた。

 驚くアリーセに、ミカエルが穏やかに微笑む。


「……アリーセ様への祝福です」


 アリーセが呆然としていると、ミカエルがそっと体を離してお辞儀した。


「これから会合がありますので失礼させていただきます」


 そうして、いつのまにか一人きりになった廊下で、アリーセはおずおずと額に触れた。


「祝福……?」


 ミカエルが祝福を与えてくれるのはいつも手のひらだった。神学の本によれば、手のひらは口に次ぐ神聖力の通り道らしいから理にかなっている。では、今はなぜ額に口づけたのだろう。額も神聖力の通り道なのだろうか。


 ミカエルの意図が分からないが、今は気が動転して上手く考えることができそうにない。彼の綺麗な顔がすぐ目の前に迫ってくるものだから、すっかり頭が真っ白になってしまった。


(……まだ熱く感じるわ)


 額に帯びた熱がなかなか引かないまま、アリーセは当初からの目的地である礼拝堂へと向かったのだった。

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