第22話 ミカエルの祝福と祈り
「アリーセ様、大丈夫ですか!?」
「ミカエル様……?」
このまま人知れず倒れてしまうかと思ったが、偶然ミカエルが通りかかってくれたらしい。アリーセが消えるように小さな声で助けを求める。
「急に不安が押し寄せてきて……意識まで失ってしまいそうで……」
「心魔の仕業でしょう。すぐに楽にして差し上げます」
足の立たないアリーセの体をミカエルがふわりと持ち上げる。すると、今までばらばらに千切れてしまうように感じていた体が繋ぎ止められるような心地がした。ミカエルにしっかりと抱きかかえられたまま、外回廊を離れて近くのガゼボへと連れていかれる。
「アリーセ様、しっかりなさってください」
「すみません……上手く息が吸えなくて……」
自分の浅い呼吸と早鐘のような心拍がやけに頭に鳴り響き、理由の分からない焦燥感でいっぱいになる。もうどうなってもいいから早くこの状態から抜け出したい。
そんな苦しみの中、得体の知れない恐怖に精一杯耐えていると「失礼いたします」というミカエルの声が聞こえ、手のひらに柔らかな感触を覚えた。そのまま神秘的な力が流れ込んできて、次第に頭の中の騒音が消えていくのを感じる。
(──ああ、もう怖くない……)
アリーセがうっすらと目を開けると、自分の左手に唇を寄せて祝福するミカエルの姿が見えた。床に跪き、長い銀色の睫毛を伏せて口づけている姿が、まるで女神の
しかし、やっと頭がはっきりしてくると、自分がとんでもなく不敬な想像をしていたことに気がついてアリーセは我に返った。
「ミ、ミカエル様、おかげさまで意識がはっきりしてまいりました。もう大丈夫です……!」
アリーセの呼びかけに、ミカエルが手のひらへと口づけたまま上目遣いでアリーセを見上げる。そうしてアリーセの意識が確かに戻っているのを認めると、唇を離して慈しみ深い笑みを浮かべた。
「もう落ち着かれたようですね。安心いたしました」
ミカエルのほっとした表情を見ると、敬虔な気持ちとともに彼への感謝でいっぱいになる。アリーセが辛いとき、いつもそばで寄り添い、気が変になりそうなほどの不安を消し去ってくれる。ミカエルには一生頭が上がりそうにない。
「ミカエル様、いつも本当にありがとうございます。お手を煩わせてばかりで申し訳ございません」
「謝る必要はありません。すべて心魔のせいなのですから。アリーセ様は深い心の傷を負われているため心魔の力も非常に強くなっているようです。私も最善を尽くしますので、焦らず癒してまいりましょう」
「はい、ありがとうございます」
ミカエルと話していると不思議と心が落ち着く。これも彼の力なのだろうか。それとも、アリーセがそれほどミカエルに心を許しているということだろうか。
「……では、私は用事がありますので、ここで失礼させていただきますね」
そう言ってミカエルが立ち上がる。
「ご予定があったのですね。お時間を取らせてしまってすみません」
「いえ。今はアリーセ様のことが何より大切ですから」
ミカエルは意味深に微笑むと、丁寧にお辞儀をしてガゼボから去っていった。
(……今の言葉、まるで私が特別扱いされているように感じてしまうわ)
ついそんなことを思ってしまい、アリーセの頬が朱に染まる。なんとなく居た堪れなくなってその場を後にしようとしたとき、芝生の上に何かが落ちているのに気がついた。
「あら、これはミカエル様の……」
落ちていたのはミカエルの持ち物であるロザリオの十字架の部分だった。これがないと祈祷のときに困ってしまうかもしれない。
「ミカエル様に届けて差し上げないと」
用事があると言っていたが、礼拝堂にいるだろうか。とりあえず、ここから一番近い礼拝堂に行ってみようとアリーセは足早に回廊へと戻っていった。
◇◇◇
「──いらっしゃらないわね」
最初に探しに行った礼拝堂にはおらず、別の場所にも行ってみたが、そこにもミカエルはいなかった。もしかすると執務室のほうに戻ったのかもしれない。今度はそちらへと向かおうとしたとき、視界の端でミカエルの銀髪が煌めいたような気がした。振り返ってみれば思ったとおりミカエルだ。一人きりで、少し寂れた雰囲気の漂う塔へと向かって歩いている。
(あの塔、神殿の案内をしてもらったときに今は出入りが制限されていると聞いたけど……)
とはいえ、大神官であれば立ち入りも自由だろう。でもアリーセはそうではないので、彼が塔に入ってしまう前に呼び止めなくてはならない。
「ミカエル様! お待ちください……っ!」
精一杯の大声でミカエルを呼ぶと、途端に彼はぴたりと動きを止め、ゆっくりとアリーセを振り返った。
「──どうなさいましたか、アリーセ様?」
「すみません、大声で呼び止めてしまって……。ミカエル様の落とし物を拾ったのでお渡ししたくて」
そう言ってロザリオから取れてしまった十字架を差し出すと、ミカエルはどこかほっとした様子で受け取った。
「ありがとうございます。助かりました」
「早くお渡しできてよかったです。そういえば、その塔は立ち入り禁止と伺ったのですが、何か理由があるのですか?」
アリーセが何気なく尋ねると、ミカエルは「ああ……」と呟き、哀れみの眼差しで背後にそびえる塔を見やった。
「──ここは数代前の大神官の時代に、伝染病で末期の患者たちを隔離して看取った場所なのです。その鎮魂のために、時折こうして訪れて祈りを捧げております」
「そうだったのですね……」
まさかそのような悲しい記憶のある場所とは思いもしなかった。大昔の悲劇も心に留め、人知れず鎮魂の祈りを捧げるミカエルは本当に慈悲深く、心の清らかな人なのだろう。
「よろしければ、私もここから祈らせていただいてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんです」
アリーセは塔に向かって両手を組み、そっと目を閉じて祈りを捧げた。苦しみながら亡くなった人々の魂が安らかであるよう願いながら。
「アリーセ様、ありがとうございます。これで彼らも死後の安息を得られることでしょう」
「そう願っています。では、私はそろそろ失礼いたしますね」
ミカエルは塔の中で一緒に祈りを捧げようとは言わなかった。だから、やはり部外者は塔に立ち入ってはならないのだろう。そう考えながら塔から離れていくアリーセの後ろ姿を、ミカエルが感情の読めない眼差しで見つめていた。
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