第21話 離れる二人、近づく二人

 同じ夜。エドゥアルトは公爵家のバスルームで熱い湯から上がったあと、火照った体を冷ましながら数時間前の出来事を思い出していた。


 今朝、孤児院から姿を消したアリーセの足取りを必死に追いかけ、調査を命じた部下からリンドブロム神殿にいる可能性が高いとの報告を受けたあと、エドゥアルトはすぐさま神殿へと向かった。


 しかし、アリーセがいるなら会わせてほしいと頼むと、門番も神官たちも一様に首を横に振った。アリーセは大切な儀式のため外部の者とは接触できないと頑なに拒むのだ。埒が開かないと大神官への面会を頼むと彼に会うことはできたが、やはりアリーセとの面会は叶わなかった。


『一目見るだけでも構わない。アリーセがどういう状態なのか、少しだけでも確認できれば──』


 どうにかアリーセの様子を確かめたくて懸命に頼んだが、ミカエル大神官はこちらの都合など皆目興味がないとでも言うように、冷えきった声と眼差しをエドゥアルトに浴びせた。


『アリーセ様は冷静に判断なさったうえで神殿の門を叩いたのです。とても落ち着かれて、儀式にも真剣に取り組んでいらっしゃいます』

『アリーセは一見落ち着いているようでも、実はひとりで我慢しがちなんだ。俺が見てしっかり確かめなければ……!』

『あなたが見て気づけていたら、アリーセ様がここにいらっしゃることはなかったと思いますが』

『……っ!』

『アリーセ様が奉願の儀式を申し出られたのは、あなたから逃げたくて仕方なかったのかもしれませんね。あなたとアリーセ様の縁はここまでということです』

『何をふざけたことを!』

『ふざけたことを仰っているのはあなたのほうです。アリーセ様はもう自立された女性。自らの意思で選んだ道をどうか尊重して差し上げてください。……それでは、私も多忙な身ですので失礼いたします』


 ミカエルにすげなくあしらわれたエドゥアルトは、全身に不快感を滲ませながら神殿を後にした。


 アリーセがいるのに会えないもどかしさ、ミカエルの正論と嘲り、また後手に回ってしまった不甲斐なさがないまぜになり、かつてないほど気持ちは荒れて最悪だった。


 熱い湯を浴びた今は、少し落ち着きを取り戻したような気がするが、たぶん気がするだけ・・・・・・だろう。


 アリーセのために自分はどうすればいいのか分からない。「彼女と結ばれなくても幸せにしてやりたい」、そう思うことがすでにアリーセにとっては迷惑なのかもしれない。ミカエルが言っていたとおり、アリーセは自立した一人の女性だ。彼女から頼まれたわけでもないのに世話を焼こうとするのは、単なる自己満足でしかないのかもしれない。


 黒髪からぽたぽたと水滴が滴り落ち、エドゥアルトの厚い胸板の上を流れていく。


(アリーセの気持ちを知りたい。俺とはもう二度と会いたくないのか。手助けさえも迷惑なのか。直接聞いて確かめたい──)


 エドゥアルトは濡れた髪を掻き上げてガウンを羽織った。



◇◇◇



 神殿での暮らしにも次第に慣れてきたアリーセは、イルヴァ教の聖典についてさらに学ぶため、神殿敷地内にある図書館へと向かっていた。


(聖典のことはある程度知っているつもりだったけれど、勉強してみるともっとずっと奥が深いのね。とても学び甲斐があるわ)


 神官に話を聞き、勧められた本を読むたびに新たな気づきと発見があり、最近は足しげく図書館に通っていた。神殿の図書館は王立図書館とは蔵書の種類がかなり違っていて、本棚を眺めるだけでも楽しい。今日は何冊借りようかなどと考えていると、外回廊の前から顔見知りの神官がやって来たことに気がついて、アリーセはにこやかに会釈した。


「ニコライ神官様、おはようございます」

「ああ、おはようございます、アリーセ様」


 ニコライ神官は今年で三年目になる神官だ。茶色の癖っ毛と垂れ目が親しみやすさを感じさせ、アリーセもこうして廊下で出会ったときなどに会話をしている。もしかすると、神殿ではミカエルの次によく話す相手かもしれない。


「アリーセ様はまた図書館ですか?」

「はい、聖典に関する本をいろいろ読みたくて……」

「本当に勉強熱心ですね。そのうち知識量で追い抜かされてしまいそうです」

「そんな、まだまだ足元にも及びません。今日もニコライ神官様から勧めていただいた本を借りるつもりなんです」

「そうでしたか。あれは本当に分かりやすくて役に立つと思います。あ、そうだ。『聖典の行間』という本も面白いですから、ぜひ読んでみてください」


 ニコライが柔らかく微笑む。彼は笑うと垂れ目が三日月のようになるのがとても愛嬌があって、アリーセまで自然と笑顔になってしまう。


「分かりました。その本も借りてみますね。ところで、今日は外出のご用事でもあるのですか?」


 ニコライが外出用のローブを羽織っているので尋ねてみると、彼はほんの少しだけ気まずそうに「えーと……」と口ごもったあと、所用で王都郊外の村に行くのだと答えてくれた。


「慰問のお仕事ですか?」

「いえ、ちょっと個人的な用事で……」

「そうなのですね。お気をつけてお出かけください」


 ニコライからどこか詮索されたくなさそうな空気を感じたアリーセが会話を終わらせる。すると、案の定ニコライはほっとした表情を浮かべた。


「ありがとうございます。アリーセ様も勉強頑張ってくださいね。それでは失礼いたします」


 急ぎ足で去っていくニコライの後ろ姿を見送り、改めて図書館へと向かう。しかし十歩ほど歩いたところでアリーセは突然、胸元を押さえて立ち止まった。額に脂汗が滲む。呼吸が速く浅くなり、泣きたくなるような不安に襲われる。


(どうしよう……。こんな場所で急に──)


 足元もおぼつかず、ふらりとよろけて手すりにもたれかかった。


(きっと、心魔が不安を煽っているのね……)


 少しでも不安を抑えられるよう、以前ミカエルからもらったペンダントをぎゅっと握りしめるが、それでもなかなか収まってくれない。次第に意識も遠のいてきたとき、背中に温かな手が触れるのを感じた。


「アリーセ様、大丈夫ですか!?」

「ミカエル様……?」

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