第20話 心の平穏
奉願の儀式──リンドブロム神殿に篭り、外界との接触を断って女神イルヴァに祈りを捧げる儀式。この儀式の間、奉願者には神殿の人間以外は近づくことができない。儀式に期限はなく、過去には十年にわたって神殿に篭った者もいたらしい。
──アリーセ様が望まれるなら、奉願の儀式として神殿に留まっていただいて構いません。
以前、ミカエル大神官が言っていた言葉を思い出し、アリーセは神殿の門を叩いた。早朝だったにもかかわらずミカエルは歓迎してくれ、アリーセを奉願者用の部屋へと案内した。
そうして、ミカエルとともに朝餉を頂き、奉願の儀式のための洗礼を行い、神殿や儀式についての話を聞くなどして午前を過ごし、午後は祈りを捧げたり聖典の勉強をしたりしているうちにいつのまにか日暮れの時間になっていた。
部屋で夕餉をとり、夜の沐浴を済ませたアリーセは、窓辺で濡れた髪を拭きながら孤児院の皆のことを想った。
突然姿を消してしまって、どう思われただろうか。大人も子供も優しい人たちばかりだから、きっととても驚かせて悲しませてしまったことだろう。
でもだからこそ、彼らの顔を見ずに夜逃げのようにして出ていかなければならなかった。嘘をついて辞めたくはなかったし、本当のことを伝えて引き止められたとき、それを振り切って神殿に来られるほどアリーセは強くなかった。
(……神殿という逃げ場があってよかったわ)
女神に守られている神殿であれば、誰かを不幸にするかもしれないと怯えずに済む。それに、今日のようにひたすら祈りを捧げていれば──いつかエドゥアルトへの気持ちも薄れて、心の平安を得られるかもしれない。
(エドゥアルトは私がいなくなったと知ったらどうするかしら……)
最後に見た、王女の腕を取るエドゥアルトの姿を思い出してまた胸の痛みを覚えたとき、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「アリーセ様。ミカエルです。今少しよろしいですか?」
「あ……はい、どうぞお入りください」
ショールを羽織って返事をすると、ミカエルが静かに部屋へと入ってきた。夜のミカエルは朝とはまた違った密やかな美しさを纏っていて、思わず見惚れてしまう。そんなアリーセの姿を見て、ミカエルは申し訳なさそうに眉を下げた。
「身支度中だったのですね。大変失礼いたしました」
まだ濡れた髪を見て気づいたのだろう。このような格好で会うのははしたなかったかもしれないが、多忙なミカエルに出直してもらうほうが気が引けた。
「いえ、お見苦しい格好で申し訳ございません」
「とんでもない。次からは気をつけますね」
ミカエルに椅子を勧め、二人で腰掛ける。
「今日はありがとうございました。ミカエル様に受け入れていただけて本当に安心いたしました」
「私のほうこそアリーセ様に頼っていただけて嬉しく思いました。今日一日、神殿で過ごしてみていかがでしたか?」
「そうですね……まだ慣れないことも多いですが、とても過ごしやすくて心地よいと感じます」
「それはよかったです。アリーセ様には神殿の空気が合うと思っていました」
ミカエルがにっこりと微笑む。そして、やや言いづらそうに話を切り出した。
「……実は先ほど、エドゥアルト・ブラント公爵が訪ねていらっしゃいました」
「エドゥアルトが……!?」
思いがけない事態に、アリーセが驚きの声をあげる。
「そんな……どうして……」
「今朝あなたが孤児院を去ったことを知り、あれこれ手を尽くして探されたようですね。そしてこの神殿に行き着いたようです」
「まさか、彼が私を探すとは思いませんでした……」
「アリーセ様に会わせてほしいとかなり粘っていらっしゃいましたが、なんとかお帰りいただきました。それでよろしかったのですよね?」
「……ええ、もちろんです。ありがとうございました。ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
神殿へ来たのはエドゥアルトを忘れるためでもあったのに、こんなことが続けば気持ちが揺らいでしまう。
「お気になさらないでください。アリーセ様に限らず、奉願者の関係者が押しかけてくるのは珍しいことではありませんので。そばにいるのが当たり前だった人がいなくなることで一時的に不安感が生じて、従来の関係を取り戻そうと躍起になる方がいるのです。しばらくすれば落ち着くでしょう」
ミカエルの説明に、なるほどと納得する。エドゥアルトの訪問は一時的なもので、しばらく耐えればそのうち収まるだろう。時間が経てば、アリーセのいない日々が「当たり前」になるのだから。
(それまで、私もこの不安を乗り越えていかなくては)
伯爵家から逃れることができてから、アリーセは理由の分からない不安感に襲われるようになっていた。それには不規則な波があり、いつまた不安に陥るか分からないことでさらに不安が誘発されるような気がした。
するとアリーセの恐れに気づいたのか、ミカエルがそっとアリーセの手に触れた。
「アリーセ様、僭越ながら申し上げますが……近頃わけもなく不安になってしまうことはございませんか?」
「どうしてそのことを……」
「恐れながら、あなたの心の奥に心魔……それも非常に力の強い心魔が巣食おうとしているようです」
「えっ、まさか……」
心魔とは人の心に棲みつき、宿主の不安を煽って心身を疲弊させ、時に宿主を操るとも言われる悪魔のことだ。心魔を退ける、または消滅させるには神官の祈祷が必要になる。
「ミカエル様、私はどうすれば……」
いつのまにそのようなことになっていたのだろう。自分が心魔に操られるかと思うと恐ろしくて堪らない。そして、やはり悪魔に狙われた自分が周囲に不幸を振り撒いていたのだと理解する。
今までにないほどの大きな不安に襲われて、思わず涙がこぼれてしまう。そんなアリーセの手をミカエルが指を絡ませるように握りしめた。
「ご安心ください、ここは神殿です。そして私は大神官。あなたを狙う心魔は私が祓って差し上げます」
そう言って、ミカエルがアリーセの手を引き寄せ、その滑らかな甲に唇を寄せる。突然の口づけにアリーセは思わずびくりとしてしまったが、ミカエルの唇から彼の熱だけではない何かが伝わってくるのを感じた。
「これは……神聖力、ですか?」
アリーセに問われたミカエルがゆっくりと唇を離す。そうして、清らかなのにどこか艶めかしい微笑みを浮かべた。
「ええ、今のは神聖力を使った祝福です。魔の力を弱め、浄化する力があります」
ミカエルが言うとおり、彼から祝福してもらった途端に先ほどまでの不安が嘘のように消えてしまった。今はただ、凪いだ湖のような穏やかさしか感じない。
「そうなのですね。たしかに今は自分でも驚くほど落ち着いています」
「それはよかったです。ですが、完全に浄化できたわけではないですからね。後日また祝福をいたしましょう」
「はい、ありがとうございます」
柔らかな笑みを浮かべるミカエルの手を握りながら、アリーセは心からの安らぎを感じていた。
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