第19話 アリーセの決意

 その日の夜、アリーセはベッドの中で昼間に起こった恐ろしい出来事について考えていた。突然孤児院に現れた王女がカイの頬をぶって泣かせたことだ。


(子供にあんなことをするなんて……)


 アリーセの悪口を言われたことは別にいい。伯爵家で受けた仕打ちに比べれば可愛いものだ。でも、子供に暴力を振るうなんて許せない。


 あれからカイはずっと泣いていて、牢屋に捕まって首を刎ねられるのではないかと怯えていた。そんなことはさせないと言っても信じてもらえなくて、もし捕まってもエドゥアルトが必ず助けに来てくれると言うと、ようやく安心してくれた。


 ──グランホルムと同じく、あなたまで不幸にされるところだったわ。孤児院からも早く追い払ったほうがいいんじゃないかしら?


 王女の言っていた言葉が頭の中にいやに響く。これは単なる嫌がらせの悪口などではなく、もしかすると真実の言葉かもしれない。自分のせいでカイはぶたれた。あの優しい良い子が、頬を腫らして泣いていた。


(やっぱり私は周囲を不幸にしてしまうのかもしれない……)


 このままアリーセが孤児院にとどまれば、また良くないことが起きるのではないだろうか。また自分のせいで子供たちが泣くようなことがあれば、とても耐えられない。


(それに……ここにいるとどうしてもエドゥアルトに会うことになってしまう)


 この孤児院のオーナーはエドゥアルトなのだから当然だ。でも、これから彼の顔を見るたびに、きっと胸が張り裂けそうなほど苦しくなってしまう。彼はアリーセを諦め、王女の手を取ることを決めた。おそらくすぐに結婚して、彼らは夫婦となるだろう。国の慶事で祝福すべきことと頭では分かっても、心がまったく追いつかない。


(彼を愛さないと言ったのは私なのに──)


 もう、辛い思いをしたくない。

 幸せになんてなれなくていい。

 ただこれ以上、傷つきたくない。


 そのとき、アリーセの頭の中で、いつか聞いたあの人・・・の言葉が思い出された。


(……そうね、そうするべきだわ)


 アリーセはベッドから起き上がると、クローゼットから鞄をひとつ取り出した。



◇◇◇



 翌日。エドゥアルトが孤児院を訪れると、いつもの大部屋はまるで葬式のようだった。子供たちが全員泣きじゃくっていたからだ。


「院長、一体どうしたんですか? それにアリーセはどこに?」


 エドゥアルトに尋ねられた院長も、心なしか憔悴した顔をしていた。嫌な予感がする。


「……今朝、アリーセ様が孤児院からいなくなっていたのです」

「は……? いなくなった……? なぜ急にそんな──」

「部屋に置き手紙がありました。こちらです」


 院長から一枚の手紙が渡される。震える手で恐るおそる受け取ってみれば、アリーセの柔らかく美しい文字で別れの挨拶がしたためられていた。



***


 エイデシュテッド孤児院の皆様


 これまで大変お世話になり、ありがとうございました。醜聞だらけの私を温かく迎えてくださったこと、本当に感謝しております。ここでの日々は私にとってかけがえのないものでした。一生忘れることはありません。


 多大な恩を受けながら、直接ご挨拶もせずに出ていく無礼をお許しください。決心が鈍らないうちに出発したかったのです。


 子供たちにもごめんなさいとお伝えください。私はみんなのことが大好きです。


 最後に、皆様の幸せと子供たちの健やかな成長を心より祈念いたします。


 アリーセ


 追伸、行く当てはありますのでご心配には及びません。


***


 アリーセの手紙を読み終わったエドゥアルトは、呆然と立ち尽くした。


(アリーセがここを出ていった? 行く当てがあるとは……?)


 早くアリーセを探さなければならないのに体も頭も動かない。ただ、途轍もない喪失感に襲われて、世界が一瞬で崩れてしまったような気がする。


「ぼ、ぼくがアリーセ様を困らせたから出ていっちゃったのかもしれない……」

「違うわ。アリーセ様はみんなが大好きだって手紙にも書かれていたじゃない」

「でも……」


 大泣きしているカイを職員が宥めている声が聞こえる。

 そうだ、カイのせいであるはずなどない。そうではなくて。


(……俺のせいだ。俺のせいで王女がここへ来てあんなことをしでかしたから。それできっと自分を責めて出ていったんだ……)


 なぜいつも上手くいかないのだろう。自分にアリーセは守れないということなのだろうか。これが運命なのだろうか。


(──いや、たとえそうだとしても。彼女の幸せを見届けるまでは力を尽くして支えてやりたい)


 エドゥアルトはようやく動くようになった頭を上げて背筋を伸ばした。


「院長、少し話を聞かせてもらえるか?」



◇◇◇

 


 遡ること数時間前。アリーセは暗色のローブを羽織り、ある場所を目指して歩き続けていた。深夜は乗り合い馬車も動いていなかったので徒歩で向かうしかなかったし、自分の行き先をなるべく知られたくなかったので朝になっても一人で歩くしかなかった。


 空が白んできた頃、ようやくアリーセは目的の場所に到着した。いつ来ても清々しく、心穏やかになれる場所。白亜の尖塔がまだ薄暗い空でも神々しい光を放っているように見える。


(リンドブロム神殿……。私の安息の地──) 


 アリーセは、自分の決意が揺らいでいないことを確かめると、聖なる地の門番に用件を告げた。


「アリーセが奉願の儀式に身を捧げたく参りました。ミカエル大神官様にそうお伝えいただけますか?」

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