第13話 ミカエルの憂い

 そもそも、命の恩人とも言えるミカエルの誘いなのだから、断る選択肢など初めからなかった。


 まだ薄っすらと湯気の立っているティーカップを持ち上げて口をつけると、今まで味わったことのないほのかな甘みが感じられた。


「お口に合いますか? これを飲むとリラックスできるので、神官たちもよく瞑想の前に飲むのです」

「たしかに、初めて頂きましたが心がほっとする気がします」


 お茶の甘さと温かさのおかげか、先ほどまで早く孤児院に帰らなくてはと焦っていた気持ちも落ち着いていく。


 ミカエルがお茶に蜂蜜を混ぜて飲むのを眺めながら、意外と甘党なのだろうかと思っていると、彼はどこか気遣わしげな表情でアリーセに視線を向けた。


「最近はいかがですか? あれから音沙汰がなかったので心配していました」

「あ……すみません、あのあと色々ありまして……」

「そのようですね。孤児院の書類をアリーセ様がお持ちくださったのも不思議でしたし、差し支えなければ近況を教えていただけませんか?」

「…………はい」


 それからアリーセは、伯爵殺しの容疑が晴れたあとも伯爵家の小姑や使用人たちから虐げられたこと、その地獄からエドゥアルトが助け出してくれて今は孤児院で暮らし始めたことを打ち明けた。


(ここまで詳しくお話しするつもりはなかったのに。どうしてかしら、ミカエル様にはすべて話したくなってしまった……)


 お茶をまたひと口飲むと、蓋をしていた伯爵家での日々の記憶が溢れるように蘇ってきて、エメラルドの瞳から透明な涙がこぼれ落ちた。


「……っ、すみません。思い出したらつい……」


 手で涙を拭っていると、向かいに座るミカエルの表情が今までに見たこともないほど冷たく青褪めているのが見えた。


「申し訳ございません、お聞き苦しい話をしてしまいました」


 清廉な大神官には聞くに耐えない話だっただろう。やはり彼に打ち明けるべきではなかった。そう反省していると、ミカエルが席を立ってアリーセの横へとやって来た。そしてアリーセの細い肩をそっと抱きしめる。


「そのようなことがあったなんて、まったく知りませんでした。どうか私をお許しください」

「そんな……ミカエル様は何も……」

「いえ、伯爵家の人々の愚かさを見抜けなかった私にも罪があります。今までよく無事でいらっしゃいました。アリーセ様にもしものことがあったら、私は──」


 ミカエルの声がかすかに震えている。やはり大神官ともなると、博愛の心も人一倍深いのだろう。


「ありがとうございます、ミカエル様。今は孤児院で穏やかに過ごせていますので心配しないでください」


 ミカエルに安心してほしくてそう言うと、彼はアリーセから体を離し、真面目な顔で口を開いた。


「アリーセ様、よろしければ神殿にいらっしゃいませんか?」

「えっ、神殿に……?」

「ええ、貴族の女性が暮らすには、孤児院より神殿のほうが安全に思いますので」

「ありがとうございます。ですが、神殿に特別扱いしていただくのも申し訳ないですし……」


 ミカエルには充分助けてもらった。これ以上の負担はかけたくない。アリーセはやんわりと遠慮したが、ミカエルは引き下がることなくさらに提案をしてきた。


「特別扱いではありません。イルヴァ教には外界との接触を断って祈りを捧げる『奉願ほうがんの儀式』というものがございます。この儀式の間は、神殿の人間以外は近づくことができません。期限は定められておらず、過去には十年にわたって儀式を続けられた方もおられたとか。アリーセ様が望まれるなら、奉願の儀式として神殿に留まっていただいて構いません」


 ミカエルからの提案に、アリーセは少し心が揺らぐのを感じた。誰の目も気にせず、この居心地の良い神殿にずっといられたらどんなに心安らかだろうか。


 この儀式のことをもっと早く知っていたら、伯爵家でのあの仕打ちを我慢することなく、すぐに逃げ込んでいたかもしれない。


(でも、今は……)


 アリーセは穏やかな笑みを浮かべると、ミカエルの目を真っ直ぐに見つめて返事した。


「ミカエル様のお心遣いに感謝いたします。ですが、もうしばらくは孤児院で暮らそうと思います。私よりずっと辛い境遇の子供たちを支えてあげたいのです」


 アリーセがきっぱりと言い切ると、ミカエルは小さく溜め息をついて苦笑した。


「……分かりました。良い提案だと思ったのですが。でも、だからこそアリーセ様なのでしょうね」

「え、私が……?」

「いえ、何でもありません。それより……」


 ミカエルが純白の法衣の袖口からペンダントを取り出す。金貨のようなペンダントトップには水色の水晶が嵌め込まれていて、ミカエルの澄んだ瞳を思わせた。


「どうかこちらをお持ちください。神聖力の加護を込めています。このペンダントがアリーセ様に幸せをもたらしてくれるはずです」

「そのような貴重なものを私に……?」

「ええ、元々あなたに差し上げたいと思っていたのです。アリーセ様のためのものですので、受け取っていただけないと悲しくなります」


 ミカエルが本当に悲しそうに眉を下げるので、アリーセは今度は遠慮するのをやめて、ミカエルからペンダントを受け取った。


「ありがとうございます。大切に身につけます」

「どうかお願いしますね」

「あ……では私はそろそろ失礼いたします。お茶をご馳走様でした」

「よければ、またいらしてください」



 ミカエルと別れて神殿を出たあと、アリーセは馬車の中でペンダントを着けてみた。着け心地は思ったより軽くて、ずっと首にかけていても気にならなそうだ。透き通った水晶に触れてみると、なんとなく気持ちが落ち着くような気もする。


「本当に幸せがやって来てくれますように」


 ミカエルの優しさを感じながら、アリーセは艶々と輝くペンダントトップを握りしめた。



◇◇◇



「──まさかアリーセ様にそのようなことがあったとは……」


 アリーセが去ったあと、ミカエルは忌々しそうに眉根を寄せてロザリオを固く握りしめた。


 しばらく忙しかったためアリーセの見守りが疎かになっていたことが悔やまれる。彼女が下賤の者に傷つけられることなど、あってはならないのに。


 助けたのが公爵というのが癪だったが、手遅れになる前に救い出してくれたことには感謝すべきだろう。おかげで今日、アリーセから神殿に来てもらうこともできた。


 事件後、彼女がどう過ごしていたのか気になり、包み隠さず話してほしくて、彼女にセルダムの茶を飲んでもらった。緊張をほぐし、他者に心を解放する効果──精神安定と自白作用のある茶だ。神官が瞑想の前に飲む茶とはもちろん違う。自分のものには中和剤を混ぜて飲んだが、そのまま飲んだ彼女はすべてを打ち明けてくれた。


 そのおかげで伯爵家での出来事を詳しく知ることができたが、身の程を弁えない屑共の行為には吐き気を催した。あの家の者たちは全員滅びるべきだろう。あとで必ず罰を下さなければならない。


「アリーセ様は必ず私が守ります。私が見つけた稀なる宝物──」

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