第12話 美化された幻想
その日の夜、アリーセは幼い頃の夢を見た。
まだ十代前半でエドゥアルトの優しさが「義理」だとは知らなかった頃の夢を。
『私、ボートに乗ったことがないの』
アリーセがそう言うと、エドゥアルトは意外そうな顔をしたあと、良いことを思いついたとばかりに悪戯な笑顔を浮かべてアリーセを連れ出した。
馬車に乗せられている間、もしやと思っていたけれど、到着したのはやっぱり湖だった。
『ボートに乗ろう、アリーセ』
エドゥアルトに手を引かれ、桟橋に繋がれているボートへと足を乗せる──ものの、ボートの揺れが怖くてなかなか移動することができない。するとエドゥアルトが『怖がりだな』と言って笑い、アリーセを抱きかかえてボートに乗せてくれた。
『初めてボートに乗った感想はどうだ?』
『ドキドキするけど、気持ちがいいし楽しいわ』
『それはよかった』
湖面に陽光がきらきらと反射して、慣れた手つきでボートを漕ぐエドゥアルトが頼もしく輝いて見えた。
『アリーセ、口に髪がくっついてる』
そう言ってエドゥアルトが笑いながらアリーセの髪を掬って耳にかけてくれる。その愛おしげな笑顔、頬や耳元に感じた彼の指の感触にアリーセの心臓はおかしいくらいに早鐘を打って、どうにかなってしまいそうだった。
『アリーセ、顔が赤いぞ。どうした?』
『エドゥアルト、私──……』
「──私、どうしてこんな夢を……」
朝、孤児院のベッドで目が覚めたアリーセは、つい先ほどまで見ていた夢を思い出して赤面した。
今さら、なぜこんな夢を見たのだろう。何も知らずに平和に過ごしていた子供時代に戻りたかったから?
昔を懐かしむ気持ちが夢となって現れたのだろうか。
(……それか、昨日エドゥアルトに優しくされたから、未練がましく思い出してしまったのかもしれない)
過ぎ去りし日、湖で楽しく過ごしたときのような関係に戻れることを期待して。
夢の中のエドゥアルトは、アリーセとの時間を楽しんでいるように見えた。アリーセの思い出の中の彼もそうだ。
でも、夢も過去の記憶も美化されて見えるもの。好きだった人との思い出ならなおさらだ。実際のエドゥアルトはあんな風に笑っていなかったかもしれない。
(エドゥアルトはなぜ私に親切にしてくれるの? 彼への気持ちを思い出したって仕方ないのに、何かが溢れてきそうで怖い……)
アリーセはベッドから出ると、すぐに水で顔を洗い、仕事着のワンピースを着て階下へと降りていった。
◇◇◇
子供たちと食堂で朝食を食べ、このあとは庭で外遊びでもしようかと考えていたとき、院長がアリーセの名を呼んだ。
「アリーセ様、こちらの書類を神殿に届けていただけませんか?」
「分かりました。こちらは何の書類ですか?」
「この孤児院の関係者の名簿です。年に一度、神殿に提出する必要があるんです。神殿の事務官に渡してざっと確認してもらうだけなので、すぐに終わると思います」
「そうなのですね。では、今から行ってまいります」
アリーセは、エドゥアルトが配備してくれたという孤児院には珍しい貴族仕様の馬車に乗り込むと、早速リンドブロム神殿へ向かったのだった。
◇◇◇
久々の神殿に到着すると、街とは明らかに空気が違うのが感じられた。森林浴のような清々しさがあり、ここでは自分のような人間でも疎外されないという安心感がある。
門番に用件を告げると、案内役の神官が現れてアリーセを中に通してくれた。
朝早い時間ということもあってか、礼拝に訪れる人々も多くない。人目を気にしなくていいことに安心し、神殿の真っ白な廊下を歩いていく。
「では、もう少々お待ちください」
応接間に案内されたアリーセは、神官が去っていくと物珍しそうに部屋を見渡した。神殿は何度も訪れているが、応接間に通されたのは初めてだ。壁には大きな宗教画が飾られ、花瓶には女神イルヴァの象徴でもある白い水仙が生けられている。
(立派な部屋だわ。でも、院長様には事務官に書類をざっと確認してもらって終わりだと聞いていたのに、どうしてこんな部屋に……)
もしや複雑な手続きがあるのではないか、自分では対応しきれないのではないかと心配になっていると、部屋の扉がゆっくりと開いて、思いがけない人物が姿を現した。
「アリーセ様、ご無沙汰しております」
「ミカエル様……?」
てっきり事務官が来るものと思っていたが、部屋を訪れたのは大神官のミカエルだった。一体どういうことなのだろう。院長から聞いていた話と全然違う。
アリーセが戸惑いの眼差しで見つめると、ミカエルはいつものように優しくふわりと微笑んだ。
「アリーセ様にお会いしたくて来てしまいました。驚かせてしまって申し訳ありません」
「い、いえ……。でも今日は事務官の方に書類を確認していただく用事があって……」
「私が拝見いたします」
そう言うと、ミカエルはアリーセの目の前の席に腰掛けてしまった。付き人らしき神官が二人分のお茶を用意して静かに去っていく。
「書類をお渡しいただけますか?」
「あ……はい、こちらです」
ミカエルに書類を渡すと、彼は三枚ある名簿をあっという間に確認し、最後のページにサラサラと署名を記した。彼の容姿のように書体まで流麗で美しい。
「確認いたしました。すべて問題ございません」
「ありがとうございます。では、私はこれで……」
孤児院の仕事もあるし、ミカエルも多忙だろうから早く帰らなければならない。テーブルに出していた封筒を片付けようとしたとき──ミカエルの美しい手がそれを遮った。神聖力に満ちた温かな手のひらが、アリーセの小さな手を包み込む。
「せっかくですから、もう少しゆっくりなさってください。せめて、お茶の一杯くらいは」
ミカエルが名残惜しそうに首を傾げてアリーセを見つめる。常に礼儀正しい彼が、先ほどから甘えたがりの健気な子供のように見えてしまうなんてどうかしている。年上でしかも神殿の頂点に立つ大神官に抱く感想ではない。
(私ったら、不敬だわ……)
そんな罪悪感もあり、アリーセはミカエルとのティータイムに付き合うことにした。
「……では、一杯だけ頂きます」
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