第9話 救いの手

「アリーセ、その姿は……? 一体何があった?」


 深い怒りを抑えるような低い声音でエドゥアルトが問う。アリーセは勢いよく俯いて、ぐしゃぐしゃの泣き顔を隠した。


「……何でもないの。見ないで」


 こんな姿、エドゥアルトには絶対に見られたくなかった。ゴミまみれで汚くて、貴族の女とは思えない醜態。でも、これこそ彼が思う今のアリーセそのものの姿なのかもしれないが。


 涙は未だ止まらず、ぽたぽたと落ちてスカートを濡らす。せめて泣き声は漏らすまいとしていると、エドゥアルトが近づいてくる足音が聞こえた。そして、アリーセが抱えていたゴミが奪い取られ、思いきり投げ捨てられる。袋の口が開いて辺りに生ゴミが散乱した。


「あ……だめ、散らかしたらまた怒られ──」

「怒られる? また? どこのどいつが君を怒るというんだ!」


 エドゥアルトの怒声が回らない頭の中に響く。

 どう答えていいのか分からない。


「し、仕方ないの。これは私の仕事で……」


 理不尽な仕打ちを訴えるべきだという思いと、彼には何も知られたくないという気持ちがぶつかって、上手く誤魔化そうとしてしまう。しかし、エドゥアルトにそんな誤魔化しが通用するわけがなかった。彼の口から「違うだろう!」と憤りの言葉が吐き捨てられる。


「君はこの家の女主人だ! これは君の仕事ではない! ……もっと早く様子を見に来るべきだった。本当にすまない」


 エドゥアルトにアリーセを見守る義務などないのに、自分の落ち度だとでもいうように悔しげに顔を歪ませている。それから地面に座り込んだアリーセの手を引いて立ち上がらせ、生ゴミまみれの体をふわりと抱きかかえた。


「だ、だめよエドゥアルト……! 私、すごく汚れているの。臭いも酷くて、あなたの服が──」

「服なんてどうでもいい。君を放っておけない」

「エドゥアルト……」


 エドゥアルトはアリーセを大切そうに抱えたまま屋敷に入り、怒気をはらんだ大声で使用人たちに命令した。


「風呂の用意をしろ! それが済んだら全員集まれ!」


 この国の英雄であり公爵であるエドゥアルトの剣幕に、屋敷中に動揺が走る。皆、何かが彼の逆鱗に触れてしまったのだと悟り、顔色を青褪めさせた。


 小姑たちも隠れている訳にはいかず、エドゥアルトの機嫌を取るために出てきたが、彼の鋭い刃のような眼差しに射抜かれてガタガタと震え出した。


「も、申し訳ございません、公爵様……何かお気に召さないことでも……」

「何かだと? この状況を見て理解できないのか?」

「あっ……大変失礼を……! アリーセ、公爵様にご迷惑をお掛けするなんて、早く降りてこっちに──」

「彼女に触るな」


 アリーセの服を引っ張る小姑をエドゥアルトが恐ろしく低い声音で牽制し、苛立ちを滲ませた溜め息をつく。


「話にならんな」


 伯爵家の者たちの視線から逃れたそうにエドゥアルトの胸に顔を埋めるアリーセを、エドゥアルトは壊れものを扱うかのようにそっと抱きしめた。


「ここの家の者は皆、己の立場を勘違いしているようだな。アリーセは由緒ある侯爵家の出。たかだか一代で成り上がったグランホルムとは格が違うと分からないのか?」


 エドゥアルトの言葉に誰も答えることができない。


「アリーセにこれほどの仕打ちをするとは……。この屋敷の全員ただで済むと思うな」


 誰もが項垂れ、しんと静まり返ったホールの中央を、エドゥアルトは怒りに満ちた足取りで通り過ぎていった。



◇◇◇



 その後、温かな風呂が急いで用意され、アリーセは一人で入って体の汚れと臭いを落とすと、シンプルなドレスに着替えて応接間へと向かった。


 扉をノックするのを躊躇ってしまう手をなんとか動かし、コンコンと小さな音を響かせる。


「アリーセ、大丈夫か!?」


 ノックして一秒も経たないうちに扉が開き、悲壮な顔をしたエドゥアルトに迎えられた。


「……ええ、大丈夫」


 ぼろぼろになって地面に座り込み、空っぽになって泣いていたアリーセを、エドゥアルトは汚れることも厭わず抱きかかえて助けてくれた。屋敷の人々の蛮行を非難してくれた。


 どうしてそこまでしてくれたのかは分からない。

 けれど、暗い沼に沈まされ、這い上がることもできなかった自分を救い出してくれたことに感謝を伝えたかった。


「助けてくれてありがとう、エドゥアルト」


 エドゥアルトは安心したようにも辛そうにも見える眼差しでアリーセを見つめると、手を取ってソファへと座らせた。


「君に礼を言われることはしていない。むしろ、責められても当然だった」

「そんなことないわ。あなたのおかげで──」


 エドゥアルトの謙遜に言い返そうとすると、上からふわりとショールを羽織らされた。なぜか彼の耳が赤く染まっている。


「す、すまない、あまり見るとよくないと思って……」

「あ……私こそごめんなさい」


 入浴してすぐにエドゥアルトを訪れたので、髪はしっとりと濡れたままだし、肌も火照っていて、はしたなかったかもしれない。気まずい思いをさせて申し訳ないと思うと同時に、久々にこうして淑女として気遣ってもらえたことがやけに嬉しく感じられた。


「改めて、さっきは本当にありがとう。情けない姿を見せてごめんなさい」

「そうな風に言うな。君は何一つ悪くない。ここがこれほど醜悪な場所だとは思わなかった。使用人のリストは手に入れたから伯爵の娘たちもまとめて全員潰す」


 潰す、だなんて物騒だと思いつつ、それをやめてほしいと言う気にはならなかった。


「……あなたが来てくれなかったら、私は本当におかしくなっていたかもしれない。でも、どうしてここへ?」


 彼がわざわざ伯爵邸を訪ねた理由が分からない。少し時間が経ってはいるが、また事件のことで用事があったのだろうか。首を傾げていると、エドゥアルトがテーブルに一枚の紙を広げた。


「君に提案したいことがあったんだ。これを見てくれ」

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