第8話 伯爵家の悪意
「大神官殿、アリーセの手なんて握って一体何の話をしているんだ?」
眉間に皺を寄せ、明らかに苛立っているエドゥアルトの横で、案内してきた神官が恐縮して頭を下げる。
「も、申し訳ございません。来客中だとお伝えしたのですが、公爵様が……」
どうやらエドゥアルトが無理やり乱入してきたようだ。アリーセが呆れた眼差しを向けると、エドゥアルトはばつが悪そうに咳払いした。
「伯爵家の馬車があったから、きっと君だと思って……。事件のことで来たんだろう? だったら俺も……」
「いえ、ミカエル様にお礼を伝えに来ただけよ。あなたもミカエル様に用事があるなら私は失礼するわ。ミカエル様、お時間をいただきありがとうございました」
エドゥアルトにはもう会いたくない。早足で去ろうとしたアリーセだったが、すれ違いざまにエドゥアルトに腕を掴まれた。
「待ってくれ!」
「痛っ……」
「す、すまない……!」
不意に強い力で腕を引かれ、痛みに思わず声をあげる。我に返ったエドゥアルトが慌てて腕から手を放したが、ミカエルが珍しく不快感を露わにして声を荒らげた。
「何をなさっているのですか! 事件のことは先ほど私からアリーセ様にお伝えしました。公爵様の役目はもうありません。アリーセ様、大丈夫ですか? よろしければ治療を──」
「……大丈夫です。今度こそ失礼いたします」
ミカエルだけに会釈をして、アリーセは逃げるようにその場を後にした。背中の向こうからアリーセの名を呼ぶエドゥアルトの声が聞こえたが、耳を塞いで無視をした。
◇◇◇
伯爵の葬儀が終わってもう一週間以上が経っていたが、すぐに帰ると思っていた小姑たちは未だ伯爵家に居座り続けていた。
「これからアリーセの食事は一日一食にしてちょうだい。パンとスープの上澄みだけでいいわ。夫の喪に服しているんだから贅沢は不要だもの」
「アリーセ、一日の半分はお父様のために祈りなさい。祭壇のある部屋から出てはだめよ」
「もう半分の時間は使用人に混ざって働いてちょうだい。屋敷の仕事を理解するのは大切だもの」
小姑たちはアリーセを楽しいおもちゃだとでも思っているらしい。行動を制限したり、何にでも難癖をつけては二人揃って嫌な笑い声を立てた。
屋敷の使用人たちも、突然現れたアリーセより当然伯爵の娘である小姑たちの側につき、アリーセを新参のメイドのように扱った。
「アリーセ様は床の掃除の仕方もご存知ないんですか? 這いつくばって雑巾で何度も拭い落とすんですよ!」
「食事の量が足りなくてお腹が空いているんじゃないですか? 床に落ちたものならもうゴミですから、肉でも果物でも勝手に食べてよろしいですよ。ほらどうぞ!」
「このブローチ素敵だわ。仕事を教えて差し上げたお礼に私がもらうのは当然ですよね?」
本来なら決して許されない貴族への無礼。しかし、この屋敷の権力者である小姑たちから許されているという安心感から、使用人たちは日頃の鬱憤を晴らすかのようにアリーセに酷く当たった。
「ねえ、なんだかアリーセ様を虐めるとゾクゾクしない?」
「分かる。ショックを受けてるのに何も言えなくて黙り込むのが可笑しくって。貴族なんて言ったって、一人じゃ何にもできないんだから」
「あたしたちはお嬢様たちに許されてるんだものね。虐めれば虐めるほどお給料が上がるらしいわよ」
「え〜、それならもっと厳しく当たろうかしら」
裏口でお喋りに興じる使用人たちを横目で見ながら、アリーセが焼却炉へと向かう。先ほど厨房から腐敗した生ゴミの袋を押しつけられ、焼却炉まで運ぶよう命じられたのだ。魚の生臭い臭いが鼻にこびりついて離れない。袋から漏れ出す濁った液体が服を汚して、さらに嫌な臭いを漂わせた。
(──せっかく伯爵殺しの容疑が晴れたのに、どうしてこんなことに……)
毎日、朝起きてから夜寝るまで自由を奪われ、慣れない仕事を押しつけられ、屋敷中の人々から辛い仕打ちを受け。アリーセはもう限界だった。
この屋敷に味方は一人もいないと思うと、理不尽なことにも抗う気になれない。きっとそのうち飽きて終わるだろう。そう信じて耐えることを選んでしまう。
でも、本当は嫌で嫌で堪らない。
こんな風にボロ雑巾のように扱われていることも。
それに抵抗しない自分のことも。
せっかく地獄から抜け出したと思ったのに、また別の地獄に引き摺り下ろされてしまった。
生ゴミの袋で見えなかった足下の石につまずいてアリーセが転ぶ。上手く受け身が取れなくて、腕に擦り傷を作ってしまった。赤い血がじわりと滲んで痛みを感じる。
早くゴミ捨てを済ませて傷の治療をしなければならない。だからすぐに立ち上がらなければならない。
それなのに、足を動かすこともできなくて、アリーセはエメラルドの瞳からぽろぽろと涙を流した。
(もう何の気力も湧かない……。体が動かないし、頭も働かない……。どうすればいいのか分からない……)
泣いてはいけないと思っても、溢れる涙を止めることはできなかった。
「うっ……うう……」
声を殺して泣いていると、ふと誰かの足音が聞こえてきた。はっとしてアリーセが泣き顔を上げると、琥珀色の瞳と視線が絡む。
「アリーセ……?」
酷い格好で涙を流すアリーセを、エドゥアルトが呆然とした表情で見つめていた。
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