第7話 揺れる心

 その日の夜。伯爵家の部屋のベッドの中で、アリーセはエドゥアルトのことを思い出していた。


 ──君の力になりたいからだ。


 彼はなぜあんなことを言ったのだろう。

 アリーセのことを嫌っているはずなのに。

 お金のために伯爵と結婚したことをあれほど嫌悪していたのに。


 そもそも彼は激しい紛争を終結させて凱旋した英雄だ。屋敷の使用人が話していたのをたまたま聞いたが、彼は最前線で先陣に立ち、獅子奮迅の活躍をして勝利に大きく貢献したのだという。


 帰還後は第一王女との結婚の話も出たとかで、このような死亡事件に首を突っ込んでいる場合ではないはずなのに。


(王女殿下と結婚……)


 第一王女のベルタは、真紅の髪と瞳を持つ情熱的な美貌の女性だ。精悍な美丈夫であるエドゥアルトと並べば、さぞお似合いだろう。国の英雄が王女と結ばれれば、まるでお伽話のように完璧で国民も喜ぶに違いない。


 それなのに。

 

(……どうして胸が痛むような気がするのかしら)


 エドゥアルトへの気持ちは、とっくに捨てたはずなのに。

 再会してからも傷つけられて、彼に惹かれる訳がないのに。

 

(きっと久しぶりに会って動揺しているだけだわ)


 事件が解決して、これから会うこともないだろうし、そのうち気持ちも落ち着くはずだ。だから、こうして彼のことを思い出すのはやめて、前を向こう。


 彼はもうアリーセには関係のない、遠い人になったのだから。



◇◇◇



 翌日、アリーセは一人で神殿を訪れた。

 命の恩人とも言える人物にお礼が言いたかったからだ。


「ミカエル様、昨日は私を救っていただき本当にありがとうございました。どれだけ感謝してもし足りません」


 深々とお辞儀をして心からの気持ちを伝えれば、ミカエル大神官は湖面のように澄んだ瞳を細めて穏やかに微笑んだ。


「当然のことをしたまでです。体調はいかがですか? まだ万全ではないでしょうに、ご足労いただいて恐れ入ります」


「昨日はお見苦しい姿を見せてしまいましたし、早くきちんとお礼をお伝えしたかったのです。ミカエル様こそ体調は大丈夫ですか? 秘術を使うのはかなりご負担になるのでしょう?」


「ご心配をありがとうございます。私は問題ありませんよ。アリーセ様の明るいお顔を拝見できて疲れも吹き飛びました」


「まあ、ミカエル様ったら……」


 くすくす笑うアリーセをミカエルが慈しむように見つめる。


「真実の秘跡を行ったあと、書類を騎士団に渡しました。あなたへの容疑は完全に晴れ、伯爵は病死として処理されることになったようです」


「そうなのですね」


 病死。あの恐ろしい苦しみようは、心臓発作か何かだったのかもしれない。あれだけ不摂生な体型をしていれば持病の一つや二つあってもおかしくはないだろう。


 やっと何もかも終わったのだと安堵していると、ミカエルがアリーセの名を呼んだ。


「アリーセ様、どうかこれからも神殿へ祈りに来ていただけませんか?」


 ミカエルのお願いに、アリーセは答えるのを躊躇ってしまった。たしかに、伯爵の喪に服すのであれば冥福の祈りを捧げるために神殿を訪れるべきなのかもしれない。だが、無実の人となった今でも不安に感じてしまうことがあった。


「……そうしたい気持ちはあるのですが、周りの人たちに好奇の目で見られるのが恐ろしくて……」


 伯爵が亡くなったことで、この一連の出来事を王都中の人々が知ることになった。いくらアリーセへの疑いが晴れたとはいえ、それでも何か言う者はいるだろう。そういう人たちから、白い目で見られ、陰口やありもしない噂話をされるのが怖かった。


 ミカエルはその不安に寄り添うようにアリーセの手を取って握ると、怖い夢を見た子供を宥めるような声で語りかけた。


「アリーセ様のお気持ちはとてもよく分かります。不安になるのも無理ありません。……ですが、それならなおさら祈りに来られたほうがよろしいでしょう。亡き夫のために祈りを捧げる姿を見せることで、周囲の目も変わるはずです」


 ミカエルの言葉にアリーセはハッとした。

 怯えて隠れてばかりいては余計にあらぬ噂が広がるだけだろう。ミカエルの言うとおり、真摯に悼む姿を見せたほうが、アリーセにはやましいことなど何一つ無いのだと分かってもらえるかもしれない。


(……でも、やっぱりまだ少し怖い)


 アリーセの迷いを悟ったのか、ミカエルが少し残念そうに眉を下げた。


「まだ考える時間が必要そうですね」


「すみません……」


「いいえ、アリーセ様のお気持ちは分かりますから。でも、あなたが来てくださったら、私は嬉しいです」


 女神イルヴァが描かれたステンドグラスから差し込む光に、ミカエルの美しい銀髪が神々しく輝く。その青灰色の眼差しと握られた手から、彼の熱が伝わってくる。


 言いようのない恥ずかしさを覚えて、咄嗟に頬を染めてしまうと、礼拝堂の入り口から不機嫌そうな声が聞こえてきた。


「大神官殿、アリーセの手なんて握って一体何の話をしているんだ?」

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