第9話 新たな出会い

「実はな、このビルのオーナー、ここの3階に住んではんねん。時間できたら来てくれてメッセージ送っとこ。ちょっと待っててな」


 言うや否や、赤塚あかつかさんはひょいひょいと奥の部屋に行ってしまった。みのりは突然の展開に呆然とその背中を見送る。


 はっと我に返る。いやいやいやいやいや、まだ無理だ。お料理の腕うんぬんもだが、先立つものが無い。今の貯金はいくらだったっけ。みのりは慌ててダイニングチェアに置いてあるバッグに駆け寄ろうとするが、ぐらりとめまいが酷くなり、とっさに目の前の作業台に手を付く。いや、見るまでも無くまだ全然足りていない。


 いくら何でも土地や店舗の購入なんて大それたことは考えていないが、賃貸でも敷金や礼金、内装などの改装費がいったいいくら掛かるのか、以前試算しただけでその額に、それこそめまいがした。


 どこでお店をやるかで敷金やお家賃などは大きく変わって来るだろうし、内装もごろ替えの必要があるか居抜きでいけるかで変わる。例えお安くあげられたとしても、みのりは「何とかなるわ」と楽天的でいられる様な性格では無いのだ。


 しかもここは本町ほんまち。大阪の一等地である。最寄りが四つ橋よつばし線なので御堂筋みどうすじ線の最寄りよりはましだろうが、それでも微々たるものだ。


 このまま話が進んでしまったらどうしよう。みのりはひとりであわあわしてしまう。すると赤塚さんが上機嫌で戻って来た。


「すぐに既読が付いたわ。今やったら時間あるから来てくれるって」


 そう言った途端、表のドアがばんっと派手な音で開けられた。みのりはびくりとしてしまう。


「1階借りてくれるええ子がおるって!?」


 そう言いながらどかどか入って来たのは、洗いざらしの白いTシャツにカーキ色のジャージ、水色のクロックスを履いた、美女だった。化粧っ気は無いし、ばさばさの黒いロングヘアは無造作にポニーテールにされているが、切れ長の目と通った鼻筋、薄い唇。とても綺麗な人だった。


 美女さんは空いているダイニングチェアにどっかりと座り、豪快に腕と足を組んだ。


「ふぁ、あ」


 みのりが目を白黒させて思わずそんな間抜けな声を出すと、美女さんはみのりを見た。


「赤塚、このお嬢さんか」


「そうですよ。酒を置かん食堂をやりたいええ子です」


「よっしゃ、採用」


 美女さんはぱちんと指を鳴らした。あれよあれよと、赤塚さんと美女さんの間で話が進んで行く。どうしよう。みのりはまたあわあわしてしまう。


「ああああ、あの」


 どうにか止めなければと、みのりはどうにかどもった声を上げた。


「あの、私、まだ自分のお店なんてとても。腕もですけど、お金とか」


 すると美女さんは不思議そうに首を傾げ、赤塚さんを見た。


「赤塚、あんたこのお嬢さんに何も話してへんのか?」


「まだです。沙雪さゆきさんがすぐに来てくれはるんやったら、沙雪さんから直接話してもろた方がええと思って」


「それもそうか」


 沙雪さんと呼ばれた美女さんは納得した様な顔になると、あらためてみのりを見た。


「礼金はいらん。敷金は家賃の1ヶ月分があったらええ。家賃は管理費含めて10万ぽっきり」


「じゅう、まん!?」


 あまりのことにみのりは目を剥いてしまう。この本町で、しかも駅近で、重飲食可能の物件でお家賃が10万円だなんてありえない。例え事故物件だとしても破格すぎる。


「せや。ただし、その条件が、酒を置かんことや」


「お酒、ですか……?」


 みのりが思わずぽかんとしてしまうと、沙雪さんが「せや」と頷く。


「あたし、酒飲み嫌いやねん。正確に言うと、酔っ払って「わや」になる人が嫌いやねん。そんな酔っ払いはうっさいし、下手したら物壊したりするやろ。迷惑やろ。あたし、うちのビルをそんなのの掃き溜めにしたぁ無いねん。せやから酒出さん店にええ値段で貸すって決めてん」


 なかなか酷い言い草である。この沙雪さん、お顔に似合わずかなりお口が悪い様だ。毒舌の域を超えている。だが。


「あの、私もお酒に酔った人苦手で」


「やんな!」


 沙雪さんはぐいと身を乗り出した。


「今までほんまにたち悪い酔っ払い見てきたわ。ほんっまに腹立つ。酒飲んどったら何してもええってわけや無いで!」


 過去、嫌な目に遭って来たのだろうか。みのりは「大変やったんですね」と呟く。


「ほんまにな。まぁもう今は縁切れとるからええねん。言うてもあたし自身は部屋とかでひとりで飲んどるけどな。自分で自分の世話するんやったら何でもええねん。それより今はお嬢さんの話や。常盤ときわちゃんて言うたか」


「はい。常盤みのりと言います」


「みのりちゃんやな。可愛い名前や。みのりちゃんが1階で食堂やってくれるんやったら、あたしも助かるわ。これで毎日旨い飯が食える。あ、定休日はちゃんと作るんやで」


「あ、はい」


 勢いに押されてつい返事をしてしまったが。


「あ、いえいえ! まだ私には難しくて、未熟すぎて、あの」


 みのりが慌てると、赤塚さんが「常盤ちゃん」と穏やかな声色を出した。


「料理って、ゴールが無いやんな。でもな、せやからこそ、タイミングが大事やねん。確かに金は重要や。でもな、自分はまだまだやって思ってたら、いつまで経っても何もできひん。何年、何十年やってはる料理人かて、まだまだやねん。ほんまにな、プロの料理人や無い人が、料理のいろんなことをアップデートしてはったりする。煮物ひとつ取っても、前は料理人の世界やったら、鍋をあっためて炒めてから出汁入れてってのが鉄則みたいな感じやったけど、今はコールドスタートなんてのもあって、それを推奨してはる料理人かていてはるからな。調味料かてメーカーの人が丹精込めて作ってはって、日々ブラッシュアップされとる。凄いやんな、それが人の食に対する探究心や。いつでも旨いもんを食いたいって言うな」


 みのりが目を瞬かせると、赤塚さんはふっと表情を綻ばせた。


「常盤ちゃんがその気やったら、沙雪さんは待っててくれはるで。いやまぁ、短気な人やから、何年もは難しいかも知れんけど」


「人聞き悪いこと言うなや」


 沙雪さんはぎろりと赤塚さんを見る。だがみのりを見る目は優しかった。


「ま、とりあえず1階部分見てみぃひん? 改装やら何やらもそれである程度見当が付くやろ。鍵持って来てるから」


 沙雪さんは言うと、ジャージのポケットからじゃらりと鍵束を出した。


「……お願いします」


 みのりが言うと、沙雪さんはにやりと笑み、赤塚さんも伴って1階を案内してくれた。


「構造的に裏口とかはあれへんのやけどな。横も後ろもろくな隙間なんてあれへんし」


 沙雪さんは言いながらシャッターの鍵を開ける。上げるのは3人でやった。そうして開かれたその場を見て。


 理想的だと、みのりは思ってしまったのだった。

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