第10話 急展開ののちに

「そらまた、えらい急展開やな」


 その日の晩ごはんどき、赤塚あかつかさんと沙雪さゆきさんに提案してもらったことを両親とゆうちゃんに報告すると、お父さんは目を丸くした。お母さんと悠ちゃんも驚いている。


 食卓には、みのりが教室で赤塚さんに教えてもらいながら作った、ヤングコーンのお料理が並んでいる。カレー粉を使ったスパイシー炒め、クリームチーズと合わせたジェノベーゼソース和え、アスパラガスと合わせたオイスターソース炒め、アボカドとスモークサーモンとで固めたテリーヌ、そしてピクルスだ。


 どれも生のヤングコーンの瑞々みずみずしい味わいを活かしたものだ。さすが赤塚さん。両親にも悠ちゃんにも大好評である。


「ほんまにびっくりしたんやけど、1階は前は居酒屋さんやったんやて。せやから居抜きで貸してもらえるんよ。塗り替えたりはしたいなって思うんやけど。せやからまた試算して、それ目指して貯金頑張るつもりやねん。沙雪さんのお陰で、お店が現実味を帯びた気がするんよ」


 あのビルは、沙雪さんのご祖父母の生前贈与なのだそうだ。受け継いだのが3年前のこととのこと。居酒屋さんはご祖父母の代から営業していて、当時は酔っ払いにそれほど悪感情を持っていなかった沙雪さんは、空いていた3階を住居に改装して引っ越して来た。それまでは大阪市内某所のマンションにいたそうだ。


 夜遅い時間まで1階がそれなりにうるさかったわけだが、居酒屋だからそんなもの、自分は3階にいるのだからそこまで害は無いと思いつつ、少しの騒音は我慢していたそうなのだが。


 ある日、ビルの前をお客さんに酷く荒らされたことで堪忍袋かんにんぶくろの緒が切れてしまい、退去を命じたのだった。沙雪さんの酔っ払い嫌いはこれらの経験によるものだった。


 居酒屋さん側からしてみれば理不尽だったのかも知れない。所有者とはいえ、後から来て住み着いたのは沙雪さんだ。だがビルの権利は沙雪さんにある。それから沙雪さんは1階も2階も、お酒を扱わない商売をする人しか入れないと決めたのだ。


 赤塚さんのお料理教室も当然飲酒は無い。少人数だからうるさくもならない。だから格安で借りられているそうだ。ちなみに赤塚さんが入るまで、2階部分は税理士事務所だった。借主が大阪北部にお家を建て、そちらで営業するからと退去したそうだ。


 すると。


「貯金やったら僕もしてるから、合わせたら結構な額になるんとちゃう?」


 悠ちゃんがこともなげに言うものだから、みのりは思わず「へ?」ときょとんとしてしまう。悠ちゃんの貯金が何の関係が?


「一緒にやるんやったら、僕も出すやろ、そりゃ」


 え、いつそんな話になった? したことがあっただろうか? みのりは首をますます傾いていく。


「悠ちゃんが一緒やったら安心やもんな!」


「せやな、私もそう思うわ」


 お母さんとお父さんもそんなことを言い出す。ちょっと待って欲しい。だからいつからそんな話に? みのりは目を白黒させながら、皆の顔をあたふたと見渡す。もしかしたらみのりが忘れているだけなのだろうか。


「あ、そうや、うちもみのりの結婚資金にって貯めてるお金があんねん。みのりやったら結婚よりお店のために渡したげた方が良さそうやな」


 お母さんは言うや否や、立ち上がって「通帳取って来る〜」と小走りでリビングを出て行った。悠ちゃんも「僕のは、と」と言いながらスマートフォンをいじる。


「今、こんだけあるわ」


 そう言って悠ちゃんが差し出したスマートフォンの画面。某メガバンクのアプリで、貯蓄口座の金額を見てみのりは目を見張った。みのりのものと雲泥うんでいの差だったからだ。


 確かに悠ちゃんは正社員でみのりより長い期間お仕事をしていたのだから、目標を持って貯金しているのならおかしくは無いのかも知れない。でもまさか悠ちゃんは、みのりと一緒にお店をしてくれようと、ここまでしてくれたのだろうか。


「お待たせ〜」


 お母さんも戻って来る。手にしていた通帳は、悠ちゃんが口座を持っているのと同じ銀行。名義はみのりである。ぱらぱらと開いて最後に印字された金額を見せてくれた。それでまたみのりは目をいた。


 試算や見積もりはまだこれからだが、これらにみのりの貯金を合わせたら、もしかしたら融資無しで開店に漕ぎ着けることができるかも知れない。


 まだまだ先のことだと思っていたのに、開店があっという間に近付いた。みのりの胸が希望で膨らむ。


 だが本当に良いのだろうか。みのりの様な若輩者が、しかもまだまだ未熟で。みのりの中の迷う心はぬぐえない。だが赤塚さんの言葉を思い出す。


「お料理にゴールは無い。大事なのはタイミング」


 それは今なのだろうか。こぢんまりとした、でも暖かなお店。心と身体を癒す、美味しいごはんを提供する食堂。


 それを確かに悠ちゃんと営むことができるのなら、心強いのかも知れない。もともとアルバイトさんに来てもらおうと思っていたから、気心が知れている悠ちゃんとだったら人間関係も安心だ。


「みのり、細かいことはまた詰めてこ。今度僕にも1階部分を見せて欲しいわ」


「……うん」


 みのりははにかみながら頷いた。




 それから悠ちゃんは、何のためらいも無くお仕事先に退職願を出した。


 改装は、沙雪さんがご祖父母の代から懇意こんいにしているという工務店を紹介してくれた。3階の改装もそこでしてもらったそうだ。


 居抜きとは言え動かせる家具や調理器具は前の居酒屋さんによって持ち出されていたので、赤塚さんが紹介してくれた中古器具のお店で揃えた。


 食材の仕入れ先も赤塚さんの紹介だ。赤塚さんのお料理教室はブランド食材なども使うが、みのりたちのお店はコストも重視するので一般的なもので充分で、そういうニーズにも対応してくれるとのことだった。


 食器類は有給休暇消化に入った悠ちゃんと千日前せんにちまえの道具屋筋商店街にこまめに通い、いろいろなパターンのものを少しずつ買い集めて行った。お鍋などの調理機器もここで揃えることができた。


 制服をどうしようかと悠ちゃんと話した結果、あまり堅苦しくならない方が良いだろうと、私服のTシャツと黒のボトムにお揃いの紺色のエプロンを着けることにした。エプロンの胸元には店名を白色でプリントしてもらった。これも道具屋筋のお店でだ。


 道具屋筋商店街はその名の通り、飲食に関わるものならほとんどのものが揃えられる店舗が所狭しと立ち並ぶ商店街である。東京でいうところのかっぱ橋道具街の様なものだ。規模はかっぱ橋よりコンパクトだが。


 近くにはお笑いを主体とした某芸能事務所が構える演芸場や、大阪を中心に活動をしているアイドルグループのシアターなどもあり、いつでも賑わっている。みのりにとってはテーマパークの様なわくわくする商店街なのだ。


 飲食店経営に必要な食品衛生責任者の資格も取った。みのりは栄養士と調理師の免許を持っているので、講習受講の必要は無くスムーズに取得できた。念のため防火管理者の資格も取った。保健所への届けも滞り無く。他にも細々とした届け出を済ませて。


 そうしてプレオープンにはお友だちが駆け付けてくれて。


 「すこやか食堂」と名付けられたみのりと悠ちゃんのお店は、無事開店することができたのだった。みのりが22歳のときのことだった。

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