夫婦関係

 真澄と別れ、凌矢が自宅マンションに帰り着いたのは、午後十一時過ぎ。ドアを開けると、リビングの方からお帰りなさいと声がかかった。

 鎖骨下のウェーブヘアをヘアバンドでまとめた姿の妻——和香わかは、凌矢に視線を向けることなくネット配信のドラマを見ていた。すっぴんだが、諸々ケアを済ませた頬はつるんとして血色がよい。凌矢はウォークインクロゼットに上着を戻しつつ、妻の背中に声をかける。


「軽く食うもんある?」

「お酒の匂い。お風呂から先に入ってきたら」

「沸いてんの?」

「こんな時間に帰ってきて? お湯はもう抜いたに決まってるでしょう」

 返事を半ばまで聞いて、凌矢はため息混じりにキッチンに入った。照明も点けずに電気ケトルに水を張り、湯を沸かし、その間にストッカーからカップ麺を取り出す。


 まつ毛の影濃い下がり気味のまなじりが、何か言いたげに凌矢へと流れた。凌矢はぴりっと片眉を上げて見せて「何」とだけ聞き返した。

「なんでもない。アタシ寝るから」

「遅くなったのは悪かったって。加藤さんが酔い潰れちゃってさ」

 加藤とは、凌矢が週一で通っているジムのパーソナルトレーナーのことである。凌矢は真澄と会う時、いつも彼との食事だと言い繕っていた。

 和香は凌矢の言い訳には反応を示さず、

「アタシ、明日一日出かけるから。お昼は適当に済ませて」

 ソファから立ち上がり、空になったマグカップを持ってキッチンに来た。


「弁護士か」

「どうしてそんなこと聞くの」

 和香はちらと凌矢を見上げて、すぐに怖じるように顔を背けた。が、色味のない唇をなおも動かす。

「アタシが弁護士に相談したいことがあるって。……そんな心当たりが、凌矢にあるの」

 電気ケトルのスイッチがカチリと切れた。湯が沸騰したのだ。


「おい、俺は別れる気ないからな」

 とろりと優しい質感のフリースパジャマの上から、運動不足の細い二の腕を掴む。凌矢は声を低くして和香に言い聞かせた。

「別居もしないで離婚なんて、訴訟でも認められないらしいぞ。三年も社会に出てないお前が、離婚できるまでどうやって生活すんの」

「…………別にそんなこと、言ってないじゃない」

 たっぷり沈黙して、和香は呟いた。聞けば、久しぶりに友達と会うのだという。


「言い方が悪かったのは謝るから。離してよ」

 分かってくれたようには見えないが、謝罪の言葉を聞いた凌矢は、ひとまず妻の腕を解放した。おやすみなさいと言い残して、和香は寝室に入った。柑橘系のヘアオイルの残香が鼻を突き、凌矢は僅かに顔を顰める。苦手な匂いだ。

 妻は、それを知っているはずだ。



 和香は、凌矢が本社の法人営業部に異動になって初めての顧客、その担当者の一人であった。案件がひと段落したタイミングで凌矢から声をかけ、男女の仲に発展し、二年の交際期間を経て入籍した。

 和香は口数が少なくあまり冗談も言わないし通じないが、儚げでどこか眩しそうに笑うのが好ましかった。自己主張が強い相手だと何かと衝突しがちな凌矢にとって、控えめな性格の和香は初めて将来を意識した女でもある。凌矢の収入を頼って家庭に入ってくれたことも、頼られているようで気持ちが良かったし、稼ぎは凌矢、家事は和香と分業できているのも素直にありがたかった。


 だから、そんな和香に川畑真澄という破天荒な旧知がいるということに、凌矢は未だ首をひねる思いでいた。

 凌矢と和香は、入籍して一年経とうという頃に挙式した。真澄は、新婦側の数少ない六名の友人の一人である。確か、真澄以外は大学のゼミ仲間だか職場の同期だかで、高校の同級生は彼女だけであった。

「四十までお互い結婚してなかったら、ルームシェアしよってカワちゃんと約束してたの」

 他の出席者とあっという間に打ち解けて談笑する真澄の横顔を眺めながら、和香はそんなことを言っていた。凌矢はと言えば、寂しい約束だなとか、そういった冗談を口にしたはずである。


 それから数ヶ月経つうちに、凌矢は、和香の態度がどことなくよそよそしくなってきたことに気づいた。子供を作るかどうかだったか、或いは和香が再び働くかどうかだったか。そうしたが重なって、会話のない日が増えたからかもしれない。四六時中剣呑というわけではなかったが、静かな火花がほんの一瞬弾けるような、些細な言い合いが増え始めた。

 それがしばらく続いた頃、SNSのメッセージを通じて真澄から連絡があった。連絡の趣旨は、彼女の親戚が投資信託を始めたとかで、心配だから少し相談に乗って欲しいというものだ。しかし、これが別の目的の口実だということには、心配させたくないから和香には言わないでほしいと忠告があった時から、凌矢は予感していた。


「パートナーは女がいいんだけど、セックスは男がいいんだよねえ」

 何度目かの密会で口にしたとおり、真澄は凌矢にセックス以外を求めることはせず、和香と別れて欲しいなどと面倒を言うこともなかった。強いて言うなら高い食事を奢らせたり、誕生日にかこつけて体良く家電を買い替えさせようとしたりすることはあれど、凌矢に恋愛感情は全く抱いていないようである。

 にしても、と凌矢は思う。


「いいの、こんなことして」

 下腹のあたりで揺れるショートボブを見下ろしながら問えば、真澄はハンと冷笑を放った。

「いやこっちのセリフ」

「まあ、それはそうだけど」

 親友の夫と不倫して平気なのかと、喉から競り上がる呻きを堪えながら付け加える。すると女は肩を竦めた。

「スリルが欲しいんだよね」

 最低な女だ。凌矢はずっとそう思っている。

 しかしだからこそ、後腐れのない付き合いが今の今まで続いているのだろう。

 そしてだからこそ、である。元カノを殺してしまおうなんて、いくら刺激を追い求めて生きている真澄であっても、こちらの問題にそこまで首をつっこむ意味があるのか。凌矢には理解できない。

 


『来週土曜の夜二時、××駅前に来てね〜』

 結局、凌矢は真澄の提案に乗った。これでも和香のことを愛している。そもそも和香とレスでなければ、不倫だって止めていいと思っている。離婚は考えられず、かと言っていい打開策は思いつかない八方塞がりだ。頭を抱えているうちに、僻みで人の家庭を崩壊させようとする方もする方だと、元カノへの恨みがましい気持ちがふつふつと腹の底で煮えたぎるようになっていた。また、凌矢自身は真澄が一体何をするつもりなのか全く聞かされておらず、いざ警察沙汰になれば、知らずに手伝わされていたのだと言い張れる気がしていたのも、真澄の提案に乗った理由の一つだ。


 十二月某日午後二時、終電などとうに過ぎている。凌矢は指定された駅にタクシーで向かった。服装はプルオーバーにジーンズ、紺のダウン、黒のマフラーとニット帽を着用している。全て昨日に買い揃えたもので、そして今日中に処分するつもりでいるものだ。

 駅前のバス停は閑散として、人一人いない。真澄に到着したと連絡すると、

『もう来ていいよ。これアンタの元カノの家、二○一号室ね』

『https://maps.app.————』

 地図のリンクと併せて返信が来る。困惑しつつも、ひとまず真澄の言う通りのアパートを目指す凌矢であった。心許ない電柱の灯だけを頼りに、凍つく裏ぶれた住宅街を行けば、十分程度で辿り着く。


 交際当時の霧緒は、鉄筋コンクリート七階建てアパート、その五階に住んでいたはずだ。しかし凌矢の目の前に建つのは築何十年の二階建て木造アパート。鉄筋の階段は吹き曝しで、夜目にも錆びて朽ちかけているのがわかる。女が一人で住んで良い場所ではないなと、凌矢は憐みのような嘲りのような情が湧いた。


 かんかんと寒々しい音を鳴らして階段を上がる。二○一号室のインターホンを鳴らそうとすれば、その前に真澄がドアを押し開けた。

「チャイムはダメよ。大きな音して目立っちゃうから」

 慎重になってと苦言する彼女は、黒のハイネックニットに黒スキニーと地味な格好——かと思いきや、奥には浮世絵の刺繍が施されたスカジャン風のダウンジャケットに臙脂のネックウォーマー、そして銀のリュックが放ってあり、慎重な服装とはいえない。こちらの迂闊を責められないだろうと、綾矢は少々不満に思った。


「さ、入って入って」

「鍵、どうしたんだ」

「合鍵持ってたから」

「どうやって作ったんだ」

 真澄は答えず、凌矢の腕を引いて部屋に入れた。1DKの居室内は、暖房が効き過ぎているのかやけに乾燥して暑い。凌矢はニット帽とダウンを脱いで、畳間へ続くガラス障子の襖の傍に放った。


 六畳の畳間で、霧緒は座卓に突っ伏していた。背中の開いた妙に艶かしい白ニットの膝丈ワンピースを着用した後ろ姿は、凌矢と交際していた時よりも痩せている。腰まであったストレートヘアは、今は肩甲骨辺りまでのウェーブになっていた。

「————ん?」

 その姿に妙な既視感を覚えて、凌矢は首を捻った。

「さ、睡眠薬飲ませて眠らせたから、さくっとヤっちゃいましょ」

 怪訝な面持ちの凌矢に構わず、真澄が霧緒の肩を引き倒して畳上に仰向けにする。凌矢は短く悲鳴を上げた。


「ちょっと、静かにったら」

「なんだ、この顔————!」

 凌矢は眠る女——妻の和香に酷似した顔を指さした。

「ど、どうして、和香がっ……」

 声を震わせる凌矢と、その指差す先を見比べて、真澄は嘲笑を浮かべた。

「は、和香がこんな整形ブスと同じ顔な訳ないでしょ。馬鹿ね」

「整形だと?」

「あれ、知らなかったの? 整形にハマって昼職だけじゃやってけなくなって、土日は会員制の高級風俗でバイトもしてるのよ」

「だからって、なんで和香の顔に————」

 そこまで言って、凌矢ははたと思い至った。

「復縁するためか……」

 それで自分とよりが戻せると思っていたのか、この女は。


「——まあ、そうね」

 真澄はつまらなさそうに肩を竦め、「お風呂に運ぶから、あんた足持ってよ」と言った。

 真澄は、リストカットによる失血死を装うつもりらしい。霧緒の身体をぬめった青い浴槽に寝かせ、水を張る。満水まで、凌矢は不倫の証拠となるものがないか部屋を漁った。

 部屋の隅に雑多にまとめて放ってある紙束が目につき、しゃがんで確認する。クレジットカードや通信費の督促状の束に混じって、興信所からの通知、送付された資料の数々が目に入り、一つ一つに目を通す。凌矢と真澄がホテルに入ってゆく写真、真澄が凌矢を待っている様子の写真、二人で食事をしている写真、ホテルから出てきて二人が別れる写真、その後の真澄の行動ルートの報告書。

 違和感に気づく。これではまるで…………


「あ、見つけたんだ」

 心臓が跳ねるまま、凌矢は勢いよく振り仰いだ。真澄が白い蛍光灯の明かりを背にして、こちらを覗き込んでいる。その表情はやはり、微塵の緊張もなく、狼狽をあらわにする凌矢などどうでもよさげだ。

「お前、これ俺を調べていたんじゃなくて」

 凌矢は声を上擦らせた。そこでようやく、真澄は少しはにかんだように笑んだ。

「あ、やっぱわかる? あんたの元カノが探偵使って調べてたのは私。てか、私のストーカー?」

「なんで、お前を」

「霧緒があんたと別れてちょっとした頃なのかな? しばらく私と一緒に住んでたんだよね。まあ、私にとっても元カノみたいな」


 凌矢はごくりと唾を飲んだ。ネロリの芳香が今はやけに重たく、鼻から入り込んで胸にねっとりと沈殿するようだ。

「ほら、あの子束縛強いってか面倒くさいとこあったからさ。別れたんだけど、ずっと粘着されてるんだよね」

 そして凌矢との不倫に気づかれ、怒りの矛先が凌矢に向いたというわけである。

「じゃあ、だとしたら、どうして和香の顔に」

「たぶんだけど……別れた原因さ、私が和香の話ばかりして、霧緒が妬いちゃったからなんだよね」

 つまり霧緒は、凌矢の妻ではなく、真澄の親友に成り代りたかったのだ。霧緒は不倫をダシに凌矢と真澄を別れさせ、真澄の関心を買おうとした。霧緒のストーカーに困っていた真澄は、手伝うといいながら、真澄自身にとってジャマな虫を払おうとした。

 修羅場の中心に、凌矢はいなかった。霧緒にも真澄にも利用されただけなのだ。恥辱は自覚する前に怒りに塗り替えられる。


「ふざけるな……!」

 かろうじて残った爪の先ほどの理性が、怒鳴り散らすのを押し留めた。それでも苛立ちを抑えきれず、凌矢は手に取った興信所の資料を畳に叩きつけ、座卓を蹴飛ばした。

 真澄は「おわっ」と呑気な驚きを口にしたが、なぜか機嫌よさげに

「鏡とか割っちゃう?」

 と百均で売っていそうな卓上鏡を手渡してきた。馬鹿にされていると悟り、胸にぴたりと張り付いた黒ニットへ掴みかかりたい衝動に駆られる。が、同時に、感情的になっているこっちが馬鹿みたいに思えてくる。こんなことで、女の前で喚き散らしてたまるか。凌矢は拳を自分の腿に打ち付け、もう一度「ふざけるなよ……」と唸った。


 真澄は「そろそろ水溜まった頃かな。見てきてよ」と言いながらキッチンへ向かった。凌矢は何を言う気にもなれず、消沈したまま浴室に入った。

 消灯した浴室、たっぷりと水の溜まった浴槽に女が服を着たまま収まっている。妻に酷似した顔は、冷たい水に浸され、じっとりとした闇に青白く浮かび上がって見える。気分が悪い一方で、いい気味だとも思った。

「おい、和香の顔してるってことは、警察が俺のところに事情を聞きに来るんじゃないか」

 寝顔をじっと見つめながら、真澄に尋ねる。ぱたぱたとこちらに歩む音が近づきつつ、

「ああそれ? 別に気にしなくていいよ」

 浴室のタイル、凌矢の影にショートボブの影が半分重なって、


 どんっ、と。

「あんたは言い訳しなくて済むんだから」

 鳩尾に焼けるような激痛。悲鳴を上げる前に、今度は左の肩甲骨の傍に刃が突き立てられる。


「な、あっ」

「うーん? 背中からじゃ無理か」

 それが、心臓を狙うにはという意味だと、凌矢はわからない。振り返れば、表情一つ変えない真澄が血濡れた包丁を振りかざしていた。

「待っ————」

 咄嗟に目の前に両手手をかざすが、包丁はあっけなく、狡猾な蛇のようにすり抜けて凌矢の喉に届く。刺さると言うよりは、横一文字、いや斜め一文字にパックリと皮膚が裂けて血が溢れる。傷は浅い。だが恐慌状態の凌矢は、「あああああ」と呻きながら自分の首を押さえてかがみ込むことしかできない。


 よっ。真澄が軽い調子で凌矢の半身を蹴り転がす。息つく間もなく凌矢に跨がる。いつものように。まるでそうするのが自然なことのように。

「メンヘラが刺すならこんな感じかな……急所外したり骨にぶつかった方がそれっぽいか?」

 ぶつぶつ言いながら、真澄の手だけは狂ったように激しく凌矢を滅多刺しにする。そのたびに悲鳴と呻きが上がるが、彼女はまるで歯牙にかけない。


 血溜まりが真澄の裸足を濡らしてようやく、猛撃は止んだ。虫の息の凌矢は、かび臭くぬめったタイルに頬を押し付け、目だけで真澄を睨んだ。女の影は、脱衣所の照明の逆光でやけに黒々と際立っている。

「どう、して」

「式挙げたあとくらい? 和香からあんたのDVやらモラハラやらのことでずぅっと相談されてたんだよね」

 真澄は足の指を血溜まりに絡めて弄びながら、子供っぽく不満げに口を尖らせた。

「わかる? 友達が夏でも長袖ばっかり着るようになった時の気持ち。何をするにも旦那の許可取らなきゃって笑ってるのを見る気持ち」


 ひっ、ひっ、ひっ。と、歯の隙間から短く早い呼吸を繰り返しながら、凌矢はただ混乱した。真澄の言うことがわからない。確かに最近の和香とは不仲だ。だが喧嘩はお互い様だったし、最終的には話し合いで和香に凌矢の考えをわかってもらうことができていた。真澄の言うようなことには身に覚えがない。

 疑問符が目の色から窺えたのか、真澄はつまらなさそうに溜息をつき、凌矢の顎を逸させた。

「いや、モラハラもDVももういいんだけどさ。何がむかつくって、和香が私以外に振り回されてること」


 喉元の包丁が鈍く光る。

「やめ——」

「ごめんねー。私があんたの奥さんとこれからも仲良くやってくために、こんなことに付き合わせちゃってさ」

 軽薄な笑みをたたえたまま、真澄は凌矢の喉深くまでゆっくり刃を挿入した。

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