十九、絶望たちの成れの果て


 襲われた時に、辛うじて無事だったというのは事実では無かった。

 ユカを怪物犬に任せて、私は女王に連れられて歩いた。

 広い平原の、地平線に向かって。


 ユカは、私たちが何を話すかは理解していない。ただ、自分についての大切な、本来なら誰にも教えないことを話すのだということを、了承しただけだという。

 そしてその話は、聞いて良かったのかどうか、私は分からない。

 そのせいで私は、究極の選択のひとつを、選べなくなってしまったから。




 ――迷宮で、ユカが襲われた時。

 すでに心身ともボロボロで、使い物にならなくなったユカを、悪人達は置き去りにするところだった。

 それが、その時あった本当の事。

 魔物の群れは、投げ込まれたユカの手足を喰いちぎり、助かるはずも無かった。


 けれど、迷宮の中というのは、その絶望と怨念に力を与える。

 不条理な、理不尽な、無惨な行為を許さない。

 人の姿をした悪魔に、必ず死を与えるために生まれたのが迷宮だから。


 女王はそう言って、迷宮が生まれた理由もさり気に述べた。

 不遇な死を遂げた人々の無念、怨念、絶望、憎悪。それらが何千年も沈み込み、積み重なり、やがて地中深くを巡る魔力と反応した。

 それが迷宮。


 悪魔を撃ち滅ぼすために、力無き魂たちが、遂に手にした力。

 それは、死の直前でありながらも、ユカにもその変化を起こした。

 覚醒というのは、つまりは迷宮に繋がったということ。

 悪魔を討ちたいという意志が共鳴し、新しい力に目覚める。




 ただし、ユカの体は損傷が激しく、死を免れただけにすぎなかった。

 もしも単純な覚醒者になっただけなら、そのまま時間を置かずに死んだだろう。

 第二覚醒まで一気に目覚めたことで、その先を行くことになったけれど。


 その力のお陰で、体は一度再生された。

 喰いちぎられた手足も、見事に元通りに。


 けれど、何が起きたかを理解したユカは、新しい手で自らの腹を引き裂いた。

 苦痛に顔を歪めながら、全ての腸を引きずり出した。声一つ上げずに。

 子宮と膣までを抉り出して焼くと、微笑んで見せたという。

 次は喉を握り潰し、そして口腔内を焼いた。胸を削ぎ落し、肌の全ても剥ぎ取った。

 残る顔も、完全に骨が見えるまで焼いた。

 経緯を知らずにこれを聞けば、正気を失っているのだと感じるだろう。


 でも――。

 なるほど。と、聞いていた私は思った。

 汚された所を、全部取り払いたいのだ。

 ユカは、全ての汚れを落とすと、安堵して倒れ込んだのだという。

 そこからは女王がユカを介抱し、今のユカへと変えた。




「余は、妹分の第二覚醒で生まれた。守護霊とでも言おうか」

「え? 私のキョエちゃんみたいな、守護獣と同じ?」

「全くの同じではない。妹分の魂を別つ分霊、その根源。アニマとして具現化したのだ。そして、余のもう半分は迷宮の意志、記憶……迷宮の魂とでも呼ぼうか。その二つから生まれた。故に、その時から迷宮を統べておる」


 女王がその記憶と自覚――自我を得たのは、ユカが安堵して倒れた瞬間だったという。

 もう一度死ぬ体だったユカを、その気持ちを汲んでギリギリのところまで分解したらしい。




 嫌な記憶を残す脳も、汚された感触の残る体も、全てをギリギリまで分解した。

 それから迷宮を用いて再構築したことで、どうにも小さくなってしまった。

 嫌なもの全てを完全に取り除き、足りないものを迷宮から補ったせいで知識も断片的になった。


 でも、その無垢で幼いユカを見て、涙した。

 汚れの無い、まっさらな体と心になれたのだから。

 記憶もほとんど無いが、それでも幸せそうに笑むユカの姿には、感動すら覚えた。

 



 そう話す女王は、とても穏やかで慈しみ深い微笑みと、傷付いた聖母のような哀れみの光を瞳に宿している。

「余の体は、本来のあれの姿だ」

 どうりで、瓜二つなわけだ。


「じゃあ、ユカもまた育ったら、あなたみたいに?」

「なろうか? なかなか育たぬ。迷宮と混ぜたせいかもしれんな」


「……まだ、数年とかなんでしょ?」

「数年? まさか。その程度では済まぬ」

 だとしたら、本当に育たないのかもしれない。


「あ。それじゃあ、ユカの力が魅了と言ったのもうそ?」

「いいや? それに、余も魅力的であろう?」

 はぐらかされた。


「そういえば、元の迷宮主はあのおっきな犬なの?」

「あれは子守りに良いから側に置いている。元はお前も見ているはずだろう」

 他にそれっぽい魔物と言ったら、あの龍しかいない。

「ユカがいつも連れてる、白い龍……」


「迷宮の主は、あれと相場が決まっている。龍脈と言う言葉は失伝したか? 地下深くを巡る魔力の具現。あれはそういう類の化け物よ」

 それを従えているのだから、単純に龍よりも強いか、魅了の力が本物ということだ。


「あなたは……地上の人間を滅ぼすの?」

 私は、この二人を傷付けたくない。

 いや、倒せるような力も無いのだけど。

 いがみ合いたくない。戦いたくない。

 ――仲良く、したい。

 要は、悲しい死に方をした人たちの、想いが重なって生まれた迷宮の代弁者。ということだし。


「悪人だけで良い」

「そうなんだ」

 でも、それが出来るなら、苦労しないよね。


 人同士で、殺し合いをする生き物だし。それはずっと、ずっと大昔から変わらない。

 個人でも、組織でも、国でさえも。

 争い、奪い、殺し続けてなお、飽き足りない。

 そういう生き物なんだろうし。

 誰が、ではなくて、人という生き物には、悪人になってしまう血が流れている気がする。


「やはり、お前は優し過ぎるな。小娘」

「そう……かな」

「余が、シロと魔物の全てを引き連れ、地上を殲滅すると言ったらどうする。ここで余を討つか。今なら殺されてやっても良いぞ」

 そう言って女王は、胸の真ん中を指差してみせた。


 その体だけを見る分には、普通の女の子の、柔らかい肌だ。

 形の綺麗な胸を、惜しげもなく見せつけているだけにも見えるけれど。


「そんなの。できないよ」

「即答か」

「できない。したくない」

「そうか」


 地平線の向こうの、太陽の光が沈みかけている。

 赤く染まる空は、地上で見るものと変わらないように見える。


「どうしてそんなこと言うの」

「直彦が、お前を探して潜って来ている」


「直彦が……?」

「好いておるのだろう? 帰るといい」

「お別れみたいに言わないで。どっちも、嫌」

「選べ。と言ったところで、選べぬか」


「どれも嫌。ユカと離れたくないし、あなたとも仲良くしたい。直彦も傷ついてほしくない」

「贅沢な小娘だ」

「ずっとこのままで、いいじゃない」

 私の言葉に、女王は片方の口の端だけを上げて笑った。


「ならば、直彦に選んでもらおうか。あれはハッキリとしているだろう」

「……あの人も、優しいからきっと…………」

 どうして、争うような口ぶりで言うんだろう。

 嫌なのに。


「招いてやろう。放っておけば一生、ここには来れまい」

「ねぇ、ちょっと待って――」

 決別のためにそうするのなら、何もしないでほしいのに。

 ――夕焼けの空に、ローブ姿の直彦が現れてしまった。



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