十七、その暮らしは家族のようで


 キョエちゃんのことをすっかり忘れていて、昨日からリュックに入ってもらったままだった。

 本当に一度も鳴かなかったし、申し訳ないけど完全に、頭の中から抜け落ちていた。私は大きなベッドで、ふかふかな布団に包まれてぐっすりと眠っていたというのに。


「キョエちゃん……生きてるよね?」

 いや、生物かどうかもあやしい存在ではあるけど。

 かと言って、リュックの中に半日以上、放置していて良いわけがない。

 さぞかし怒っているだろうと、恐々とチャックを開いて行く。


「ごめんね。ごめんねキョエちゃん。怒ってるよねぇ……」

 覗き込んだ後は、キョエちゃんに睨みつけられるところまでは想定済みだ。

 でも、そういうことはなくて、頭をくるりと背中に埋めて、赤い羽毛のかたまりになってリュックの中でふんわりと、静かに息をしていた。

 長めの尾羽だけが、狭そうに無理なカーブを描かされているけれど。


「寝てるの? 狭いところでごめんね? あの……ほんと言うと忘れちゃってたの。ごめん。もう出て来てもいいからね」

 声を掛けると、埋めた頭をくるんと返して、上目に私を見上げた。パッチリとしたお目めに、アイシャドウのような青いラインが余計に可愛い。


「いい子にしてくれてて、ありがとう。出ておいで」

 乗ってくれるかなと、リュックの中にそっと手を伸ばすと、ちょん、と上手に乗ってくれた。

 手の平に、キョエちゃんのしっかりとした足と爪の感触。スッと背を伸ばすようにして、すでに羽ばたきたそうに羽を半開きに広げている。


「このお部屋は広いから、ちょっとだけ飛べる――」

 そう言いかけた頃にはもう、シュッと飛び上がって部屋の隅から隅まで一回りしてしまった。

 そしてクローゼットの上に止まって、そこがお気に召したのか、降りて来ない。


「そこがいいの? 食べ物はないけど、お水とか飲む?」

 そういえば、エサは私の魔力だと直彦が言っていたっけ。

 私の言葉には反応せずに、私をジッと見たり、部屋を見渡したりしている。と思ったらおもむろに、毛繕いを始めてしまった。


「まぁ……いっか」

 動物を飼うのは初めてで、何かお世話しないとかなと思いつつも、それは単に、撫でたいだけで構おうとしていたかもしれない。エサやお水の世話も必要なくて、フンもしないようなら好きなように居てもらえばいいか、と思った。


「お姉ちゃん……もう起きちゃったの?」

「ユカ、おはよ」

「うん。キョエちゃんも、おはよぅ」

 ユカがクローゼットの上に視線をやって言うと、キョエちゃんは短く「キョェキョェキョェ」と返事をした。


「え。私には無反応なのに……」

 ちょっとショックだった。やっぱり、リュックに入れっぱなしだったのを怒っているのかもしれない。


「キョエちゃぁん。もう忘れたりしないから、怒らないで。ね?」

 懇願、ではないけれど見つめていると……少し間を置いて、チラと私を見てくれた。けれど興味無さげにまたすぐ、尾羽の毛繕いをし始めた。


「尾羽……リュックの中で曲がってたもんね……ごめんね」

「フフフ。お姉ちゃんかわいそうに。おいで。よしよししてあげる」

「うえーん。ユカぁ」


 ベッドで寝そべったままのユカに抱きついて、そのまま頭を撫でてもらった。立場逆転だ。

 というか、一晩一緒に寝ただけで、随分と打ち解けた気がする。

 気安くなったし、こんな冗談を広げながら抱きついたり、本当の姉妹みたいだ。それは私だけじゃなくて、ユカもきっと同じだから、こんな風に頬をスリスリとしてくれるのだと思う。

 これからはこの子と、一緒に暮らしていくことになるのだし。だからこういう、愛情たっぷりのスキンシップを自然に出来るのは、幸先が良い。




 直彦の別荘は、まるでおとぎ話のお城暮らしや、宮殿に住まうお姫様のような生活だ。

 どんなに寝ていたくても朝は定刻に起こされるけれど、その代わりに美味しい朝食が用意されている。気が向けば庭に出て草花を愛でつつ、キョエちゃんのお散歩をしたり、図書館のような書斎で、迷宮についての記録や研究書を読んだり。


 午後からは体育館ならぬ訓練場で、直彦と模擬戦闘も出来る。これは、お姫様の日常ではないか。

 だけど、とても優雅だ。


 本当のお城暮らしは、政を勉強したり政敵が居たりと大変なのだろうけど。

 とにかく私は、迷宮での命のやり取りや熾烈な訓練から解放されて、幸せを感じている。


 ユカも同じようで、ここに来てから随分と穏やかな顔をしている。それに、幼い言動が減っていて、年相応な雰囲気を滲ませることが増えてきた。言葉はまだ、少したどたどしいところがあるけれど。


 私が思うにユカは、大変な目に遭って、心が記憶ごと退行していたんじゃないだろうか。だからこんな風に平穏で、幸せを感じていることで元の年齢に戻りつつあるんじゃないかと。

 実際はどうなのか分からないし、三週間くらいを平和に過ごしたとはいえそんなにみるみる回復するとは思えないけれど……表面上は、そういう劇的で素晴らしい変化が見て取れる。




「お姉ちゃん。わたしね、ここの暮らしが好き。誰も嫌なことをしてこないし、嫌なことを言ったりもしないから」

 昼下がりにユカとキョエちゃんとで、お庭を散歩しているとそんなことを言い出した。

「そうね。ここの人は皆、優しいね」


 キョエちゃんは好きに飛び回って、気が向いたら私の肩に止まる。守護獣というだけあって、さすがに逃げて行ったりはしない。だから安心して、好きなように飛ばせていられる。


「うん! ずっとここに住みたいなぁ。お姉ちゃんと、なおひこと一緒に」

「そうねぇ。そこまで甘えられないなって思うけど、憧れるわね」

 どういう形になったら、そんな生活が続くだろう。


「ふふっ。わたし、いいこと知ってるよ」

「良いこと?」

「なおひこ、お姉ちゃんのことが好きだって」

「えっ!」

 ――いや、社交辞令だろうし、せいぜい友達として言っただけに違いない。


「だって、聞いたもん。お姉ちゃんのこと好き?って。そしたら、好きだよって」

「それはね、人として好きってことでしょ。恋人になりたいラヴの好きじゃなくて。ライクとラヴは違うのよ」

「らいくとらぶ?」


「そ。似ているようで、ぜんぜん違うんだから」

「ふぅん? じゃあ、こんど聞いてみる。らぶの好きかどうか」

「い、いいいいいやいや、それでさ、ライクだって言われたらどうするの?」

「あー、お姉ちゃん顔赤い! お姉ちゃんはらぶなんだ。らぶの好き~!」

「か、からかわないでよ。ちょっとだけ。ちょっとだけいいなって、思ってるくらいだから」


 好き……かと聞かれたら、きっと好きだ。

 無神経っぽいところは気になるけど、基本的に優しいし、声を荒げたりとか不機嫌丸出しとか、そういう嫌なことをしない。人を気に掛けて、さりげない笑顔を見せてくれるところなんかは、私の中でポイントが高いし。


「……わかんない。お姉ちゃん、うそついてる」

 それにやっぱり、助けてもらった時の、あのインパクトが強い。憧れかもしれないけど、かっこいい。今でも思い出したら、胸が高鳴ってしまう。


「もぅ。ユカには敵わないなぁ……。でもね、直彦は偉い人だし、私じゃ釣り合わないの」

「つりあう? 好きなだけじゃダメなの?」


「グイグイくるなぁ。まぁ、ね。私には何もないし。地位とか、財産とかさ」

「ふぅん? でも、なおひこに聞く。だって、お姉ちゃんと結婚してほしいから」

「も~。またおっぱいの話?」

「そう! おねえちゃんのおっぱいは、絶対に飲みたいから」

 精神年齢が上がってきたと思っても、こういうところは、ちぐはぐなままだった。


「そこは子どものままかぁ」

「子どもじゃないし!」

「フフ。どうかな~」

「イジワル言ったから、今日もお姉ちゃんのおっぱいちょうだいね」

「えー? 昨日も吸ったじゃん」

「ほんとは毎日欲しいの。これでもガマンしてるんだよ」


 そう言ってのけるユカは無邪気で、たぶん本気で言ってる。

 屈託のないやわらかな笑みと、どこかいたずらな目。


「……もぅ。しょうがないなぁ」

「えへへ~」

 同情もあるのかもしれないけど、ユカならいいか、と思ってしまう。妥協というよりも、やっぱり最初に吸わせてあげた時の、母性のようなものがキュンと、胸を疼かせてくる。




「優香。ここに居たのか」

「あ、直彦。うん。ユカとお花が見たくて」

 いつの間に側に来ていたのか、直彦がすぐ後ろに居た。

 いつも通りの笑顔を見せてくれたから、午後のお茶にでも誘いに来てくれたのかもしれない。


「なおひこ~。今日はね、聞きたいことがあるの。ちゃんと考えて答えてね?」

「ああ、えっと……それは今度にしよう、ユカ。少し急なんだが、僕はまた、迷宮に潜る。しばらく帰れないけど、君たちはここに居てくれていいから」

「え。ほんとに急ね。でも、それなら私も――」

 私も戦えるし、それに、出来れば一緒に居たい。


「優香はユカと過ごしていてくれ。その方が、僕も安心出来るし」

「えっ? どうして? 私じゃ足手まといだから?」

「なおひこ。お姉ちゃんのこと、らぶの好きだよね? ね?」

「ユカ、なんで今そんなこと聞くのよ」

「え~? だって、すぐに聞きたかったから」

 邪魔をしないで。直彦のこの感じ、ほんとにすぐにでも、出て行ってしまいそうなのに。


「ハハハ。それは……また今度ね」

「今おしえてよ」

「今はほら、大事な話をしているから。答えは帰ってきてからにしよう」

 ユカがこんなに強引なのは、珍しい気もするけど――。


「そうよユカ。そういうのは……その、二人の時に。聞きたいかも、だし」

「やだ。らぶじゃないなら、どうしたららぶになるか、聞かないとだもん」

「ハハハ。困ったな。う~ん……今はね、やらなきゃいけない事があるから、誰にもラブじゃないんだ」

「そっ! そうだよね! 世界はいま、たいへんな時だし! 迷宮、潜らないとだしね!」


 ショック過ぎる……こんな風にフラれるのって、想像してなかった。

 頭がグラグラする。何も考えられない。何の話をしてたんだっけ。


「……なおひこのうそつき。おねえちゃんのこと、好きって言ったくせに」

「いや、それはその、好きは好きさ。でもね」


「なおひこのうそつき。わたし、うそは嫌いなの。うそつきは、大っ嫌い。お姉ちゃんを傷付けるうそつきは、もっともっと嫌い……許せないわ」

 ユカの雰囲気が、おかしい。フラれたからって、ぼんやりしている場合じゃなさそうな、迷宮で初めて出会った時のような、異質さを感じる。

 というか、明らかに前のユカに戻ったような気配だ。

 ――なだめないと。


「ユカ。落ち着いて。大人の事情とか、そういうのがあるから。ね?」

「ううん。だめ。許せないもの。お姉様に、いいつけてやるから」

「ユカ。そんな風に言わないの。落ち着いて話そ? ね?」

 私がユカの顔を覗き込んでも、その焦点は私をすり抜けて直彦を睨みつけている。昏い瞳で、本気で怒ってる。

 どうして……?

「優香……下がるんだ。これは、厄介な事になったかもしれない」




「直彦……貴様、この妹分を傷付けたか。愚かで傲慢な、人間ごときが」

 出た。

 ユカのもう一人の人格。もしくは、本当に全く別の存在の、迷宮の女王。


「ユカの、お姉さん……。お、おひさし、ぶり」

「小娘。貴様が付いていながら」

「え。ご、ごめんなさい」

 怒らせたのは、直彦のせい……違うか。ユカが無理に話に入って、怒っちゃっただけなのに。


「それより、直彦と言ったな。貴様にはそろそろ、消えてもらおうか。妹分の面倒をろくに見られぬようではな」

 女王は、すっと宙に浮くと直彦を見下ろした。直彦に見下ろされていたのが、さも気に喰わなかったと言わんばかりに。尊大にゆっくりと、顎を上げて。


「迷宮を司る女王。まさか本当に、ユカに憑りついていたとはね」

「知った風な口を聞くな。うつけが」

 二人の口喧嘩で終わればいいけど、女王は本当に何をするか分からない。しかも、地上で出て来たのは初めてのことだし。刺激してほしくない。


「あの、あのね、ユカのお姉さん。争わないで済む方法はないの? ユカを大切にしてくれてるのは、分かってる。私も大切にしたい。だから――」

 落ち着いてゆっくり、話合おう?


「優香! 離れろ!」

 ――いつの間にか私は、力を使っていないのに宙に浮いていた。

 それに、なんだか急に眠いなんて、おかしい。このまま寝てしまいそうなほどに。

「クフフフフ。愚かで優しい優香。お前はこの子のために、連れて行くとしよう。うつけ、貴様はしばらく世話をかけた礼に、今は殺さずにおいてやる」

「優香を離――」



 私の意識は、ここで途切れた。



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