大雨

 レインコートを着込んで、手には透明なビニール傘。

 水音のする草地を、発見される間抜けに至らないように、慎重に、冷静に、しかしく思いで走っていた。


秋葉原あきはばらァ……」


 よく知れた気象予報士(ニュースキャスター)の名を恨めしく声にしてみたが、もちろん、あらゆる意味でそれはただの八つ当たりだった。そもそも参考にしていたのは、テレビの予報などではなく、もっと信頼できる資料元だったのに……。


 数分前だ、ザッと桶を引っ繰り返したように雨が降ってきた。


 予期せぬ南西の突風が運んできた厚雲は、しゃくり上げる赤子のように今にも降り出しそうな雰囲気はあったが、まさかこんな夕立みたいに泣くとは思ってなかった。


 雲は閉じた。それでも雨に紛れて、安全性はそこまで脅かされるものではないが、こんなに降られて体調を崩さないかが心配だった。


 慎重に慎重を期して、彼女の待つ丘へ近づく。


「リティエルリ」


 やっと着いた、という一息の安堵は――視界に映った光景を見た瞬間、彼方かなたへ吹き飛んだ。


「あら、こんばんは、セーシロー!」


 ――それが、リティエルリが妖精であると、一番強く感じ入った瞬間だった。


 雨にずぶ濡れになっているのだ、人間では、こうはならない。


 彼女は、木々から落ちてくる雫を拭いもせずに、笑顔で挨拶をしてくれた。どういった原理でそう見えるものなのか、晴れた夜よりも尚輝いて、艶やかに活きた、魅力的な表情で。

 金色の髪は濡れ鼠のようにはならず、雫を自然と受け止めて、雨を喜ぶように輝いている。本人も雫の滴りを気にした様子がなく、心地良さそうに今日の天気を楽しんでいた。

 服は……美しく水を弾いて濡れず、品格を失わない。ああ、きっと妖精は雨の日、こうしてその天気を楽しむのだなと想像できる見目がそこにあった。


「――寒くはない?」

「ええ、平気よ。――ありがとう」


 レインコートを脱いで、傘を広げる。

 妖精の世界には無いのかもしれない、ラージサイズのビニール傘を物珍し気に見つめて、隣に座った俺とひさしを同じくした。


 しばらく、無言で、二人、雨雲の空を見上げていた。


「……今日は、素敵な天気ね。でも、それは気力が戻ったから言えることなの。正直。外郭世界の雨って、あんまり好きにはなれない。冷たくて、寒くて、あのときは……本当に惨めな気持ちになった。……弱い者イジメよ」

「妖精世界の雨は、この世界とはまた違う?」

「あちらの世界の雨は、透き通るように輝く銀色、人間世界には無い色ね。その滴は温かくて、雨が降ると、子供たちはその下で踊るのよ。皆ではしゃいで、仲良くね」


 それはまた、こちらの世界とはだいぶ事情が違う。フッ、と微笑が漏れるような光景が、雨闇あめやみの背景に輝いて浮かんだ。

 ……リティエルリも踊るのだろうか? とか、聞いたら怒るか?


「でも、ふうん、この道具はいいわね! 音が楽しいし、なんだか……温かい」

「リティエルリ、悪いけれど――……」今晩は、少し警戒して過ごした方が良いように思う、そのようなことを言おうとした瞬間に。


 驚くほど軽い実在の体を、リティエルリは俺の肩に預けてきた。

 その体温から……信頼が伝わってくる。


 言葉が消えた。


 ……しばらく、そうしていたかったけれど、つまらないことを伝えなければならないことに嘆息して、話を続けた。


「今晩は少し警戒して過ごしたほうがいい。【翼視力よくしりょく】が利かないから……」

「大丈夫よ、セーシロー。妖精は、雨の日は、簡易的な結界を敷くことができるから。雫を得て静かに胎動する植物たちの声が周囲の様子を教えてくれるし、雨のが人の形を露わにするの」

「――妖精種族が植物の声を聴き分けるというのは本当だったのか……!」

「口蓋から出るような発声が聴こえているわけではないけれど、そうね、彼等かれらの声は理解できるわ」


 リティエルリは足元の雑草を撫でて微笑んだ。

 それはまさに『妖精に関する記述』に記されていた情報そのままだった。思ったよりも、妖精世界から外郭世界へ伝わっていることは多いのかもしれない。


「なんだ、そうだったのか……。いや、身構えててさ、今日は長い夜になるかもしれないって」

「あら、長い夜が来てもいいじゃない。セーシロー、これは私の話であるけれど、たとえ耐え忍ぶような長い夜がきても、あなたとなら、苦痛にもがくこともなく超えられると、そう思っているから」


 ――言霊こどだまが分からないから、どういう情緒でその言葉を受け取っていいのか分からない。

 友達という意味ならいいんだけど、なんて小さな声が、胸の隅から聞こえて消えた。なんだ今の。


「疑似結界の探知範囲はどれくらいのもん?」

「誰かの足音も知らせてくれる正確な範囲で半里(約2km)と少し、大きな騒乱を知れる曖昧な知らせの領域が一里というところよ」

「ありがとう。二キロ……【翼視力よくしりょく】より見えづらいわけか」

「……セーシロー、今なんて言ったの?? セ、セーシローの【固有因果律エゴスフィア】が見通せる範囲は……どれくらいなの?」

「四キロ圏内は一望できる、視るところを絞れば、六キロ圏内は見下ろせるけれど、あくまで視界内の景色を目で捜索しなければいけないから、正確度でいえば雨日あまびの結界の方法のほうが信頼を置ける」

「セーシロー! や、やっぱり……あなたの才能はすごいわよ……! 自然の力に手を添えて使えるすべよりも秀でている【の方法】なんて、そんな突出した才能、なかなか無いわよ……!」


 本当に、【翼視力よくしりょく】の固有因果律エゴスフィアだけであれば、人間世界の中でもトップオブベストに数えられるような才能なんだけどな。他はろくでもないマイナスを抱える場合がほとんどの中、デメリット無しという奇跡の【固有因果律エゴスフィア】であったわけで。


「セーシロー、もっと誇りなさい! あのね、自分に寄り添った魔法は、一番近い不思議な隣人を想うようにして心から誇らしく思えば、そのたびに輝いて、十全以上の力で意志に応えてくれるものなの。そう、不思議な隣人を素直に誇りに思うことが、ずっと続いていく付き合いにおいて大切なのよ」


 そして、リティエルリは笑顔で言った。


「そうして、いつかセーシローの潜在能力として、願いを叶える力になる。ねっ、不思議な隣人でしょう?」


 不思議な隣人……。

 考えた事もなかったけれど、そう付き合っていくのが、まさしく、いいのかもしれない――。


「セーシローの名として、あなたの意志に賛同してくれる、一番近しい隣人よ」


 ああ――、そして、そうか。

 どうして、先のリティエルリの言葉に「友達という意味ならいいんだけど」なんてことを思ったのか、今、分かった。


 真っ直ぐに目を見て、真っ直ぐな言葉で名を挙げられて、気付く。


 成志郎という名。

 その言葉に、影ではなく実在を見て欲しいと、そのように思ったんだ。


 ああそうか、俺はこいつに……認められたいんだ。

 誠実の王子様を真似た人間としてではなく、識織 成志郎という一人として。


「――これからはそのように想おうか。一番近い隣人か……、不思議な感覚だ」

「そう、魔法というのは不思議なのよ、セーシロー」


 透明なひさしの下、身を寄せて、この場所だけ隔絶されているような情感で、いつの間にか音の消えていた雨降りの景色を眺めていると――突如ビクリと、リティエルリが震えた。


「――どうした?」

「誰かが……一つのお家から、尋常じゃない様子で飛び出してきたの。駆け出して、今は立ち止まって……――待って、雨を伝って、声が聴こえる。…………アレ? これは、アっ、ミツナギ……?」


 気付きの表情から一転。

 リティエルリは目を丸にした唖然の顔を浮かべた。


「あいつ、何て?」

「ん、ええと、その……、『雨めゴルァアア』って空に向かって叫びながら、なにか、ヒラヒラな紙の付いた棒を振り回しながら、そう、ひたすら叫んでいるわ。……アキハバラ? 『なんとかしろアキハバラキャスターッ』……アキハバラ・キャスターって誰のことかしら……?」

「……ハハ。あいつ馬鹿だなぁ」


 祈祷棒かよ。

 テルテル坊主でも吊るしとけよ。――まあ、気持ちは分からんでもないけどな。


「あっ、誰かもう一人、家から外に出てきて……ミツナギをポカって殴った。ミツナギのお母様かしら……?」


 ありがとう。

 胸中でそんな言葉を蜜凪に向けて、しばらく母子揃って作法のない祈祷をしたのち、家に連れ戻されたという蜜凪を笑った。


「ミツナギには、心配をかけてしまったわね」

優撫ゆうなさんが戻ったあとに、合流して、その時に思いの丈を明かし合えばいい」


 気の緩むようなことを言ってしまってハッとしたが、納得を浮かべて微笑み、表情を明るくしたリティエルリを見ると、これはこれで悪くはないと思えた。

 緊張は絶対に必要だが、リティエルリが過度の緊張に晒されて疲弊に溺れることは避けなければならない。気を張るのは俺でいい。


 このあと連絡を取ってくるほど蜜凪は考え無しじゃない――、心労をかけた蜜凪の分も気張って、あいつの苦労もひっくるめて、俺が責を全うする局面であることを再認識する。


 せきか。

 いつもは、なんで学生が『仕事の責』を負うこと考えてんだと、苦々しい気持ちになるものだが、今回はまったく勝手が違う。


 俺がそうしたい。


 委託された仕事という概念はとうに消え失せていた。


「……【事象透過ワールドオフ】の魔法も、いつか、俺の願いに添う力として、最たる意思に賛同してくれるのだろうか?」

「きっと。――――ねえ、ミツナギのお母様は、アイカさん、というのでしょう? ミツナギ、アイカ、そしてセーシロー……。不思議な響きの名。セーシローの名前には、どんな意味が込められているのかしら?」

「前向きだけど、あんま明るい話題ではないんだよな。物体を、床を透過したり、危うさの塊みたいな子供だったからな、きちんと生きて、成長できますようにっていう意味で、成志郎だな。本当に迷惑をかけ通した……」

「……特異な魔法を魂に刻む人間は苦労するのね。妖精は、魔法による異常が当たり前だから、そこらへんの施策は充実しているわ。人間の世界もそうなればいいのに……」

「リティエルリの名の由来を聞いても?」

「私はねっ! 聡い妖精の美しい存在、という意味なのよ! ……に、人間の言葉で表すと、少し大仰に聞こえちゃうわね。聡い妖精の……象徴的な美? ううん……上手く当て嵌まる言葉がない……」

「ああ、象形的な意味なのか。川の煌めきに似た、とか、空の青のような、みたいな意味を言葉に含むかんじか?」

「そ、そうっ! ええとぉ……、朝日がそうであるような……、清らか、みたいな……いやちょっと意味が違う……――」


 リティエルリと出逢って七日目。織枷校長が戻るまで、残り約二日。

 そうして夜明けが近づくまで、身を寄せて二人、雨を景色にしながら、話していた。


 外にいるのに、雨の景色が苦しくないと感じたのは初めてのことだった。それがなんだか本当に特別なことに感じて、暗いはずの景色を鮮烈に、記憶に刻んでいた。


 ダバッ、と。

 木々が支えていた水の塊が傘に降ってきて、二人、ビクリと身を竦めて――笑い合った。


 馬鹿なことを考えていた。

 はれんでいいから、朝が来るなと、そんなふうなことを心のどこかで考えていることを発見したのだ。



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