5-5 手の届かないところで動く事態

 遥がトラストスタッフを訪れると、律は表情を崩して彼女を迎えてくれる。

 彼の笑顔は見ているだけでも心が和む。

 だが彼自身の精神状態はどうなのだろうと遥は案じる。


 このところ律はとても忙しい。

 クリーニングどころか食事も宅配、しかも自宅ではなく職場に持ってきてもらうほど「缶詰」状態だ。

 ずっと根を詰めて働いているわけじゃないよと律は微笑するが、それでも一日の三分の二近くを会社で過ごすのはかなりのストレスに違いない。


 仕事の合間に仮眠はしているようだが、蒼の夜の出現が増えてきっと体を休めている間も気が気でないはずだ。


「なにかわたしにできることはないの?」


 お茶を淹れて律の前に置きながら遥はそんなことを尋ねてしまう。

 答えを聞くまでもない。大学生の遥に仕事の面で律を助けられることはほぼない。蒼の夜が出現した時に彼の負担を減らすことだけだ。


「遥さんがこうして会いに来てくれるだけで僕はすっごく癒されてるよ」


 ほぼ予想通りの答えが返ってきた。


 おいしそうに茶をすする律の笑顔こそ、遥の癒しだ。

 つい、言いそうになる。

 わたしなんかでいいの? と。


 遥は自分に女性としての魅力があるとは思えない。

 だが不安に呑まれそうになる時には、母の言葉を思い出す。


『自分を必要以上に卑下するのは、自分だけじゃなくて思ってくれる人のことも馬鹿にすることになるのよ』


 どうしても自分に自信が持てずに思い悩む遥に、母がくれた言葉だ。

 律がどうして自分を好きになってくれたのか。今は好きだと言ってくれていてもわたしにそこまで女としての魅力があるのかどうか、と不安を打ち明けた時、母が言ったのだった。


 律のことは好き。

 この気持ちを馬鹿にするような人は許せない。

 だったら、遥を好きだと言ってくれている律の気持ちを否定してはいけない。

 自分に自信なんてもてないけれど、律が好きだと言ってくれているのは信じたい。


 遥は律の笑顔を見ていつも勇気づけられている。

 一緒に戦う以外で遥に出来るのは、律が笑顔でいられる時間を支えることだと思う。


「お弁当作ってきたわ。時間のある時に食べて。お部屋に缶詰の律には、缶詰を持ってこようかなって思ったけど」

「……遥さん、怒ってる?」

「ううん。心配しているだけ」


 弁当箱を書類の横にちょんと置いて、遥はにっこりと微笑んだ。


「大切な人には、元気でいてほしいから」


 律の顔がぽぉっと赤くなる。


 かわいい。

 こんな律の顔を見るのはわたしだけ。

 そう思うと、少しだけ自分を誇らしく思える。


 それじゃ早速、と律は弁当箱を開けて箸を手に取った。

 唐揚げを食べる。美味しい、と顔をほころばせる。


 やっぱりかわいい。

 遥の口元も自然に緩んだ。


 しばらくは弁当を嬉しそうに食べていた律だったが、あ、そうだ、と思い出したかのようにつぶやいて、真剣な面差しを遥に向けた。


「蒼の夜関係で、二つ、大きく動きそうなんだ」


 かねてから出ていた、異世界に行くという話だろうかと遥は身構えた。


「蒼の夜の発生源の異世界が特定されたよ。といっても名前だけ、だけれど」


 名前だけが特定されたとはどういう経緯で、どういう状況なのだろう。

 遥は息を詰めて続きを待つ。


「蒼の夜を経由してきた異世界の人が見つかったらしいんだ」

「蒼の夜から人が来た、ってこと?」

「うん。その人が元の世界でちょうど魔物と交戦中に蒼の夜が発生して、魔物が地球にやって来た時に追いかけてきて、みたいだ」


 その人物から元の世界の話を聞くことができたらしい、と律は言う。


 異世界の名前はエルミナーラ。

 そちらから来た人物は、エルミナーラで魔物退治をしている男性だそうだ。

 彼から聞いたエルミナーラの様子をまとめると、異世界ものによくある、中世ヨーロッパ風の世界らしい。


「まだ『保護』したばかりだから詳しい話はこれからみたいだけれど、話の持って行き方によっては、地球とエルミナーラとの国交、ん? 国でいいのかな? とにかく交流がもてるかもしれないね」


 安全にエルミナーラに行き来できるようになれば、蒼の夜の原因を調べて発生をなくすようにできるかもしれないと期待されている。

 大きな進展へつながるかもしれない、という話に遥はほっと息をついた。


「あともう一つは?」

「うん、……こっちは、転び方次第で世間がパニックになるかもしれないけれど」


 前置きが不穏だ。


「蒼の夜の発生について、世間に公表した方がいいんじゃないかって話が上がってる」

「……どうして?」


 先の話ではもしかすると蒼の夜の発生をなくせるかもしれないのに、わざわざ公表するメリットがあるのだろうかと遥は首をかしげる。


「理由の一つは、蒼の夜の発生が増えていて、解決よりも先に隠しきれなくなるかもしれないから」


 今、毎日どこかで蒼の夜が発生している。頻度でいえば三年前の蒼の夜大襲来前と似たような状況にある。

 三年前は発生頻度が増えてから地球全土を覆った大襲来まで期間が短かった。なのでなんとか隠匿できていた。

 だが今回は蒼の夜が増え始めてからもうひと月以上だ。蒼の夜の発生場所が交通量の多い所では解消後に事故も起きていて、このままではいずれ情報を隠匿しきれなくなるだろうといわれているそうだ。


「蒼の夜に巻き込まれた箇所は世界の狭間のような空間に切り離されて時間も止まる。蒼の夜が解消した時に突然現実に戻ってくるのだからね。いくら世界が修復していると言われていても、事故は避けられないだろうな」


 事故が起こるのは納得だ。巻き込まれる人も目撃者も増えればそのすべての人にフォローはできないのも納得だ。


「理由の一つ、ってことは、他にもあるの?」

「うん。異世界から来る人が増えるかもしれないから」


 蒼の夜の発生が増えれば、魔物と一緒にこちらに来る人が増えるかもしれない。

 今回はうまく暁が保護できたからいいが、こちらにやって来た異世界人が必ずしもこちらの意図通りに動くとも限らない。

 その理由にも遥はうなずいた。


「けれど……、自分ではどうしようもない状態で魔物に殺されるかもしれないなんてみんなが知ったら、……どうなってしまうのかな」

「うん。混乱するだろうね。今、主要国のトップが秘密裏に会談しているみたいだよ。蒼の夜のことを公表するメリットとデメリットを考えて、近いうちに判断すると思う」


 律の口ぶりからして、蒼の夜を公表する流れになっているのかもしれないと遥は察した。

 今でも忙しすぎる律が、さらにいろいろなことに煩わされるかもしれない。


 わたしは、わたしに出来ることをするしかない。

 遥は決意を新たにする。

 ――一緒にいるわ。たとえ律がどんなことに巻き込まれても。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る