2-10 嫉妬
次の訓練も、律は来ていなかった。
最近蒼の夜の発生が少し増えているということなので、いろいろと忙しいのだろう。何がどう忙しいのかは司にはまったく想像もできなかったが。
律がいないことに、ほんの少しだけ嬉しいと思っている自分に気づいていた。
今だけは、遥は自分だけを見ていてくれている、と。
もちろん純粋に弟子として、なのも重々承知だ。
それでも遥を独占できているのだと思うと優越感に似たものを感じていた。
遥と律は付き合っているのだと判っていても、日に日に少しずつ膨らむ気持ちは抑えようがなかった。
あきらめてしまった方がいいと思いつつ、まだ決定的に二人が付き合っていると言われたわけではないというあきらめの悪さも心にあった。
訓練をいつも通り終えて、律の執務室に向かう時、遥が何かを差し出してきた。
「いつも頑張っているから、これ。よかったら食べてみて」
差し出されたのは、クッキーの入った袋だった。店で買ったものではない、明らかに手作りだと判るそれはリボンで口をくくられていて控えめな可愛さがある。
驚いた。
同時に、嬉しさが込み上げてきた。
「ありがとうございます」
だが喜んで受け取った、その時。
「さっき律も食べたけれど、まずくはないみたいよ」
遥の発した一言に、袋を掴んだまま司は固まった。
「メインが雨宮さんで、あまったから俺にも、ですか」
口をついて出た言葉も声も、自分でも驚くほどにとげとげしかった。
え、と遥は小さい声を漏らした。そんなことを言われるとは思っていなかったというのが一目でわかる。
しまった、と司はうろたえたが、吐いた言葉は戻らない。
「あなたにあまりものとか、そんなつもりはなかったのだけれど、傷つけたなら、ごめんなさい」
遥は頭を下げた。
さっきまでの師匠然たるたたずまいではない。叱られた子供のように縮こまっている。
「あ、いえ、その……」
そんな様子で謝られてしまって、司はどう応えていいのか判らなくなってしまった。
気まずい沈黙を破ったのは、遥だった。
「律のところに行きましょう」
努めて平静を装っているような声だった。
すっと自分のそばを離れて歩き出す遥の後ろを追いかけた。
なんて嫌なことを言ったんだ。嫌われたな。
自己嫌悪と後悔でどうにかなりそうだ。
「二人ともお疲れ様。今日はどうだった?」
律はいつも通り迎えてくれる。
屈託のない笑顔が、今は恨めしい。
――どうして、
そんなふうに考えてしまう。
元々二人は長く付き合っていて自分がそこにぽっと出てきただけの存在だ。
どうしてなんて考えるのすら失礼だ。
それは判っている。
律はとてもいい人だ。蒼の夜に対抗するために日夜頑張っている。司のことも本気で案じてくれているのも感じる。
それも判っている。
理屈では、判っているのだ。
だが感情が、判りたくないと訴えている。
遥に心からの笑顔を見せてほしい。
他の誰でもない、あなただけだ、というあの笑顔を。
彼女が何かを作ってくれるなら、律ではなく最初に手渡してくれるのは自分がいい。
そんなふうに考えてしまう。
「あれ? 氷室くん元気ないけれど大丈夫?」
律に話しかけられて、はっとした。
「あ、いえ、大丈夫です」
「それならいいけれど、あまり無理はいけないよ」
いつもどおり律は本気で司を案じている。
今はその気持ちが一層心苦しい。
いっそ憎めたらいいのにとさえ思ってしまう。
「ちょっと、思うようにいかなくて」
苦し紛れに出た言葉に律は「あぁ」と納得の声を上げた。
「そういうことあるよね。でも大丈夫。成長は一定じゃないんだから訓練を続けていたらふっと伸びる時もある。――って、僕も言われたよ」
律は恥ずかしそうに笑った。
そんな彼を見て遥も微笑している。
自分の知らない過去の二人のやりとりなのだろう。
悔しい、けれど、仕方がない。
「師匠に言われたんですか」
聞きたくないのについ尋ねてしまう。
「遥さんにもだけれど、他のパーティメンバーにもね」
律は当時を懐かしむような顔で話した。
支援や回復を担う律は、戦闘の流れを掴まなければならない。
味方と敵の動き、やろうとしていることを把握してサポートするのが律の役割だ。
だが戦い始めた頃はなかなかうまくいかず、味方が大きなダメージを負ってしまうことがままあった。
自分は駄目なのじゃないかと落ち込む律に、仲間達は「今は成長が停滞している時かもしれないが、ぐっと伸びる時もある」と励ましてくれた。
役立たずの自分はいない方がいいのではとさえ考えていた律は、仲間の言葉を信じて訓練と実戦を重ねてどうにかサポート役として動けるようになったのだ、と律は過去の話を締めくくった。
「だからちょっとぐらいうまくいかなくても大丈夫」
律はにっこりと笑った。優しくて頼もしい笑顔だ。
彼の笑顔には、マイナスの感情を和らげる魔法が無意識に込められていると以前遥が言っていた。無意識にそんなものが発動するくらい「いい人」なのだ。
それが判るだけに、司は複雑だった。
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