第2話 二〇三三年 六月十五日 水曜日

小玉コダマツクモ

「おい、ツクモ! 起きろ!」

「う……、うーん。師匠……、俺は……、一人で大丈夫です……」

 ツクモは半笑いでむにゃむにゃ言いながら、まだ眠り続けている。

 

「おいっ! ツクモっ!」

 ソウスケは机に腕枕で眠る半袖白シャツの背中を叩き、続けざまに黒髪をスライドするようにパサッと叩いた。

 

 ツクモはガタンと椅子を跳ね除けて立ち上がった。

はいいいっ! しっししっ・・・・・師匠!!」


「ツクモ、お前、何寝ぼけてんだ。ウケる」ソウスケは笑って黒板の方を親指で指した。「安居アンゴが呼んでたぞ。テスト。返却だって」


おお、ソウスケか。久しぶりだな。ササ・・サンキュ」

 ツクモは耳と頬を赤くして唇を指で押さえた。



 エアコンの効いた六月の壱原野中学校の教室。

 三年三組。

 教壇でプリントの束を持った教師の安居が次々に生徒の名前を呼ぶ。生徒たちは返却された点数を見てざわめいている。


「センセー、今回のテスト難しかったよお」

「安居ちゃんの小テストいっつも地獄」


「おいー、答案用紙返してもらったら、さっさと席戻るー」


 コマチは肩下約十センチメートルほどまで伸びたストレートの髪で一文字に結んだ唇を隠すようにうつむき、返却された九十九点の答案用紙を睨みゆっくりと歩いていた。


(あいつ、ずいぶんな牛歩だな。そんなに点数低かったのか?)

 ツクモは黒板の方へ向かって机の間の通路を歩きながら、前方にいるコマチの姿を見つめていた。


 すれ違いざま、互いに無意識にぶつからないように避ける。ツクモは横目でこっそりとコマチの答案を見た。灰色のチェックのスラックスとプリーツスカートがかすかに擦れる。


(なんだ、普通に良い点取ってんじゃん。

 て言うか、俺、一野イチノ心町コマチに見られてもいねえのに、すっごい避けられてたな。どこに目ついてんの? いや、俺そんなに臭いのか?)


 ツクモは自分の腕の匂いを嗅ぎながら教卓に置かれた答案用紙を引っつかんだ。


 コマチはようやく窓際の自分の席に戻ると、机の中にテストを突っ込み、頬杖をついて閉め切られた窓の外の、青い空の向こうに見える雨雲を眺めた。


 キーンコーンカーンコーン……


 鐘が鳴りランチの時間。


 教室の女子たちが机ごと数名で集まって弁当の準備をする中、コマチは一人、息を詰めて弁当の入った手提げ鞄を握りしめ、廊下へ出た。


 アヤメは教室の後ろの方の席から、そんなコマチをじっと見ていた。

 


 学校の屋上。

 湿度が高く、むっとする暑さ。昼の強い日差し。


 コマチはコンクリートの熱い地面にレジャーシートをひいて座り、弁当を広げ黙々と一人で食べていた。


 下の校庭から、熱風に乗って屋上の緑の小高いフェンスを突き抜け、生徒たちの声が聞こえ出した。昼休みに部活動をするかけ声。ボールの音。


 コマチのスマホが鳴る。


母:今日仕事で遅くなる

 悪いけど、いつものひきだしからお金出して何か買って食べといてくれる?


 コマチは汗の滲む眉間に皺を寄せてメッセージをしばらく見つめ、返信欄に、[お母さん、今日、何の日か知ってる?]と打ち込んだ。送信せずに消去した。


コマチ:分かった


母:ついでに近くのスーパーで米買ってきてくれない?

 小さい方でいいから

 もうすぐなくなりそう


(ケーキは?)

 コマチは心の中の声を消去した。


コマチ:分かった


 六月の半分のこの日は、コマチの誕生日だ。

 コマチは半分食べかけの弁当のふたを閉じた。

「……食べる気なくなった」

 小さく吐き捨てる。レジャーシートに丸まって寝転び、緑のフェンス越しの空を見る。


 目を閉じてジリジリと照りつける太陽を全身に浴びながらコマチは呟いた。

「私が生まれてきた意味なんて何もない。何の意味もない。生きる目的もない。消え去りたい」


 瞼の赤が急に暗くなる。目を開けると今にも雨が降りそうな分厚い灰色が覆い、雷鳴。

 コマチはスマホの時計を見た。


「まだ教室には戻りたくないな」


 ぽつり


 一雫、雨粒がコマチの頬を打ちつけた。


(……どうしよう) 

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