第5話
「これを着て下さい」
男性が──湊が渡してくれたのは、私のクローゼットに入っていた白いパーカーだった。病院内は空調設備が整い過ぎており、時として真夏でも肌寒く感じてしまう。着用している制服によって患者と医師を分けているこの院内では特別のことだったが、以前に無理を言って用意してもらっていた。
湊が部屋の解除コードを打ち込み扉が開くと、私達は足早に通路から階段へと駆け下りていった。
「僕は自分が自分で何をしているのか分からないんですよ」
足を動かしながら、湊は不安気な表情でそう呟いた。
「今更そんなこと言ったってしょうがないでしょ? 現にあなたは私と同じものをみてる。いい? これは妄想なんかじゃないの。勿論、幻覚でもない。仮にこの世界じゃないにしても、必ずどこか別の世界で皆は生きてる。さぁ、一刻も早くこんな所から抜け出して新奈と湊を助けにいきましょ」
この病院から抜け出して新奈や湊を助けに行くことを決断したのは数分前のことだった。
──僕の名前は、湊です。
彼がそう口にしたその瞬間、私の目からは自然と涙が零れ落ちていた。自分が妄想だと言われた話を真実だと証明出来るから嬉しかったのではなく、自分の仲間を見つけたような安心感に包まれたのではなく、ただ懐かしかった。湊という私の中で生きるその存在に会えたことが、まるで生き別れた兄弟に会えたかのような感動と驚き、胸の中が満ち足りていくようなその感情に包まれてたのだ。
ひとしきり泣いてから、私は「皆を助けにいこう」と言った。最初の内は湊は戸惑っていた。幼少期から私と同じように自分の中で生きるもう一人の自分の人生を垣間見ているかのような感覚におちていってしまう時があり、もしかしたら自分は解離性人格障害──多重人格者なのかもしれない。精神医学に興味を持ったのは自らがそういう体験をしているからだったという。実際にその道を志し、知見を得ながら独学で自らの治療を試みようとしていた時に、私と出会った。全く同じものをみて、感じ、そして自分と同じように中にもう一人の自分の存在を感じるという私と。
だが、自らと全く同じ体験をしている私と、患者と医師としての関係性でいる私とを、うまく切り離すことが出来ないようだった。
「どうしてですか? なんであなたは僕と全く同じものを見ているんです!」
「そんなこと私が知る訳ないでしょ? 私だって、なんで私の中に新奈がいるのか、なんとなくでしか分からない。それに……それは抽象的で、言えばきっとまた頭がおかしくなったと思われる」
湊は私のベッドの傍で立ち尽くしたまま、少しでも気を紛らわそうとしたのか、窓の向こうに視線を送った。澄んだ空。夏のひかり。蝉の声。もう何年もそんな季節の贈り物を、私は自由という名の空の下では受け取っていない。
「とにかく私をここから出してっ! 皆を助けにいきたいの」
「それは許可出来ません」
「どうして」
「僕の上司がそれを許さないからです」
湊は未だに窓の向こうに視線を貼り付けていた。まるで私の目を見れば自らの考えを変えてしまう事を恐れているかのようだった。ベッドから身体を起こした。床と足が触れ合うと、大理石の冷たさが身体の内側を頭の先にかけてまで這い上がってくる。一歩ずつゆっくりと足を進め、背を向けている湊の後ろに立った。
「あなたのいうその上司は、冬の帳村なんて存在しないって言ったよ。新奈も、湊も、沙羅も、私が口に出すその村で生きる人たちは全て私の妄想だってそう言ったのよ」
湊は、黙ったままだった。
「私は妄想なんかみてない。嘘もついてない。私の中に新奈がいる。あの施設で過ごす新奈はずっと孤独で、死のうとしていた時期もあったけど、それでも必死に生きてる。そんな新奈も私の内の一人だって、確かに感じるの。ねぇ、あなたもそうなんじゃないの?」
湊の身体が微かに動いた。
「何も知らない人や何も感じない人が、否定するならまだいい。私は辛いけど信じてくれないならしょうがないよ。でもね、あなたは駄目だよ。ずっとあなたの中で生きるもう一人の湊の人生を見てきたなら、今湊がどんな目にあってるかあなただって分かってるはず。それをあなたが否定するって事は、湊の存在を否定する事と同じだよ。それってさ、自分を殺そうとしてるのと同じじゃないの?」
そう問い掛けると、湊が目の前の窓ガラスに頭を一度打ち付けた。それから振り向いて、私達は向かい合った。
「僕はずっと自分がおかしいと思って生きてきました。自分の中にもう一人の自分がいる。こんな事人には話せない。けど、否定もしたくない。だってそちらの世界で生きているのも僕だって分かるから」
「うん、分かるよ」
「湊を、新奈を、皆を救うことが出来ますか?」
「うん、二人なら」
湊が手を伸ばしてくる。その反対の手を私は差し出して手を組み合わせた。
「やろうよ。皆を助けてあげよう。私達の為にも」
私が微笑みかけると、窓の向こうから差し込んだ夏のひかりが湊の頬を伝った涙をきらりと照らした。
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