第2話

「新奈っ!走れ!」


 湊がその声と共に運動場へと駆け出し、私は後を追うようにして闇の中、無我夢中で走った。静寂が満ちていた冬の帳村の空気を、施設の警報音が震わせる。まるで地響きでも起きているかのような大きな音だった。鼓膜の奥深くで鳴り続ける私の鼓動は、それに競うように大きな音を立てている。


「十四番の柵の、四本目から十本目。十四番の柵の、四本目から十本目」


 湊は薪小屋に着くなり壊れたラジオのように何度もその言葉を呟き、予め用意していた懐中電灯のスイッチを入れ光を向ける。それから、力一杯に柵を蹴った。何かが砕けたような鈍い音が鼓膜に触れた時には、柵は見るも無残な姿になっており、そうやって生まれた隙間から私達はついに施設の外へと逃げ出すことが出来たのだった。遠くの方から職員たちの「逃げたぞ! 逃げられたぞ」という声が聴こえた。私達はその声すらからも逃げるように、無我夢中で走り続けた。途中何度も無数の足音が近づいてきたり離れたりしたが、山の中へと入ったことでようやく引き離せたようだった。でも、と思い、私は雪に預けていた身体を起こし、足首に目をやった。服の上からも辺り一面に闇が満ちているせいか、それは一定の間隔を保ちながら光を点滅させている。施設にいる時には緑色だった光が、今は赤く染まっていた。


「ねぇ湊、これを外さないと私達……一生逃げられないんじゃない?」


 隣で私と同じように雪の上で横になっていた湊にそう呼びかける。


「だろうな。でも、これがどれくらいの精度を持っているのかは分からないけど、ピンポイントで位置を割り出すことは出来ないみたいだな。もしそうじゃないなら、さっき俺たちは捕まってるよ」


 湊はスボンの裾を上げ、点滅するその光をみながら言った。湊が言ったさっきというのは、ここに来るまでの道中で私達は後ろから追いかけてくる職員たちに距離を詰められ、湊が咄嗟の判断でやり過ごそうと言って茂みの中へと身を潜めた時のことだろう。幾つもの足音が鼓膜に触れて、職員たちは「近いぞ。この辺りにはいる。探せ!」と口々に話しているのが聴こえたのだ。私は記憶を思い返しながら湊の言う通りだと思った。もし、この発信機が位置を完璧に把握出来る代物なら、私達はあの時点で既に捕まっているのだ。


「そろそろいくか」


 湊が身体にかかっていた雪や土を払いながら言う。


「どこにいくの?」

「わからないけど、どこかに山小屋か何かがあるかもしれない」


 足に力を入れて立ち上がろうとすると小刻みに太ももの辺りが震えた。筋肉が痙攣している。普段から大して身体を動かない人間が、急に身体を動かすとこうなるのは自然の摂理なのかもしれない。行くあてもなく山道を彷徨い続け、木々が開けた道に出た。明らかに人の手が入っている感じだった。


「もしかしたら猟師の人とか林業に携わっている人たちが普段使っている道なのかもな」と湊は言いながら懐中電灯の光を足元に向けていた。辺りは真っ暗だった。湊が手にしているその光だけが頼りで、直線上に伸びているその光の先をみつめていると、私たちの歩いている道の先の方で同じような光を感じた。少しずつ距離が近くなり、その光を手にしている持ち主も私達の存在に気付いたようで光を向けられる。闇に慣れかけていた私の目にはあまりにも眩しくて、思わず目をすがめてしまう。


「逃げるぞ」


 湊が声を落としながら言った。


 光をこちらに向けてきている誰かは歩く速度が早まることが無かった為に、私達も急いで逃げ出してはいなかったが、それは闇の中で姿がよくみえてないかもしれない。そう思い、既に背を向けていた湊に続き、私も背を向けようとした時だった。


「あんたら、こんなとこで何してる」

 

 向こうの方から声をかけてきた。しわがれた、年配の女性の声だった。施設の職員ならわざわざそんな尋ねてきたりはしない。少しだけ胸を撫で下ろしながら、私は振り返った。


「あの、ここで迷ってしまったんです。だから、その、怪しいものじゃないです」

「怪しいかどうかは私が決める。こんなところで、何をしてるんだい? それと、懐中電灯を私に向けんどくれ」


 そう言われて、湊が向けていた懐中電灯の光を足元のへと滑らせた。先程まで光に照らされていたその顔には幾つもの深い皺が刻みこまれており、ほつれた白髪の髪が渦をまくように肩の辺りまで垂れ下がっている。以前施設の中で出会ったおばあちゃんだった。


「おばあちゃんの方こそ何してんだ?」


 湊がそう問い掛けた。


「私はこの先にある、穴を守ってる。今も見回りをしてた所だよ」

「穴って、なんの穴?」

「穴は穴だ。この村に住んでいるなら、あんたらも聞いたことがあるだろう。村に伝わる言い伝えだ。全てを呑み込む深い穴。どれだけ雨が降ろうとも、どれだけ雪が降り辺り一面に積もろうとも、その穴が濡れることはなければ、埋まることも決してない。なにせその穴は、闇すらも呑み込んでしまう」


 それは、子供の頃から何度も聞かされてきた言い伝えだった。雪が降る日には、妖精が現れる。その話とおばあちゃんのいう穴の話は、パンにはバターやジャムを添えるのと同じように、言わばセットのようなものだった。けれど、この村に妖精なんていないのと同じで、その話もあくまで言い伝えであり、実在しないのだろう。いや、する訳がない。


「そんなの伝説だろ? おばあちゃんもそんな話を信じてないで早く家に帰りな。この辺は明かりもないし暗くて危ないよ」


 鼻で笑うように喋り始めた湊が、私が胸の内で思っていたことを、そのまま話してくれた。だが、湊の放ったその言葉で、暗くてはっきりとはみえなかったがおばあちゃんの表情が一瞬で険しいものになったように感じた。


「穴はあるよ。この現実に存在する」

「作り話だろ? 証拠でもあるの?」


 普段は乾いている冬の空気が少しずつ粘り付くように纏わりつくように感じていた。おばあちゃんの纏う空気感が異質なものだからだろうか。


「証拠なんて必要ない。この先の道にいけば、その穴はあるからね。でも、あんたらが見ることはないだろうね。この私が生きている限り、それは許さないよ。あの穴は、危険すぎる」

「なんだそれ、意地悪だな」


 湊は変わらず、からかうような素振りで話していたが、私な空気が変わったように感じた。言い伝えは、言い伝えだ。だが、何故か、このおばあちゃんがまるっきり嘘の話をしているようには思えなくなっていたのだ。肌がひりつくような感じがする。それは、寒さによるものでななかった。


「数日前、ちょうどあんたらくらいの年の子が、その穴に呑まれたよ。二人」

「えっ?」


 二人のやり取りをずっと黙って聞いていたが、気が付いたら口から言葉が溢れていた。胸騒ぎがした。何か。何か、嫌な予感がしたのだ。


「おばあちゃん……それって、その穴に呑み込まれたのって男の子と女の子?」


 私は、おばあちゃんが首を横に振ってくれることを願っていた。だが、おばあちゃんは小さく首を縦に振り、「あぁ、そうだ」と呟いた。


「あんた、何で分かったんだい? もしかして知り合いか何か」

「おばあちゃん教えてっ! その二人はどんな子たちだった? どんな服を着てた?」


 言い終える前に私は咄嗟におばあちゃんの肩を掴んでいた。その手に、皮の感触がやけに目立つような、乾いた手のひらが重ねられる。


「あんたの反応をみて分かったよ。知り合いだったんだね。あの子たちがここに来て、私は言ったんだ。これ以上先には行ってはならんよ、ってね。そしたら」


 おばあちゃんの言葉に、その声に、全神経を注ぎ耳を傾けけていた時だった。木々の揺れる音と共に、幾つもの足音が重なり合う音が鼓膜に触れる。それから「反応が近いぞ! この辺りだ」という罵声にも近いような声が続く。


「くそっ、もう追いついて来やがった新奈行くぞ」

「あっ湊、ちょっと待ってっ」


 私の放った声は虚しく夜に溶けていき、湊に手を引かれるままに、私は駆け出していた。おばあちゃんの姿が少しずつ遠くなっていき、やがて木々に隠れてみえなくなった。私と湊が通ってきた歩道のような道から職員の声が聴こえた為に、私達は斜面を駆け下りていくしかなかった。冬枯れした木の枝が服を切り裂き、皮膚を傷つけ、身体の至るところが痛かった。それでも無我夢中に駆け下りていくと、村に出たのだ。どうやら私達は山の中を短い円を描くようにして周っていたらしい。寸前までおばあちゃんと話していたであろう方角へと目を向けると、『私有地につき進入禁止。この先、大変危険』という消えかけている文字が書かれた看板が、斜めに傾きながらも立てかけられていた。


「湊、さっきのおばあちゃんの話……あれって、穴に呑まれた二人って」


 背中で息をしながら呼吸を整えていた湊にそう問い掛けずにはいられなかった。


「新奈」

「あれって、亮太と愛莉のことじゃない?」

「新奈、やめろ」

「もしそうだとしたら……二人はもう、この世にいないって事」

「新奈!!」


 湊が膝に手をつきながらも、私に鋭い眼差しを向けてくる。


 「二人はきっと大丈夫だ。あの二人がそんな簡単に死ぬはずない。それにさ……穴ってなんだよ。全てを呑み込む穴なんて、そんなもの現実にある訳がないだろ? あのおばあちゃんはどこかおかしかった。だから、きっと、幻覚か何かをみたんだ」


 湊は諭すようにして私にそう言ってから周りをきょろきょろと見渡している。近くに職員がいないか確認でもしているのだろうか。私はそれをみながら、おばあちゃんの放った言葉を、その瞬間の表情を思い出していた。湊が言うように、確かにあのおばあちゃんにはおかしな所があった。だが、私には嘘をついているようにみえなかったのだ。あのおばあちゃんは、おかしいから幻覚か何かをみたのだと、湊は言った。では、幻覚をみたらおかしな人なのだろうか? じゃあ、白い部屋をみた私は? 上にも下にも続く螺旋階段や白衣に身を包んだ女性を何度もみている私はどうなるのだろう。私もおかしいことになるのだろうか? お前がみたものは全て幻覚だ、嘘をつくな、もし私がそう言われていたなら、きっとやるせない気持ちになったはずだと、自分の立場に置き換えた時、尚更あのおばあちゃんが話していた内容が嘘だとは思えなくなった。


「……奈」


 微かに湊の声が聴こえた、気がした。


「おい、新奈っ!」


 湊が私の顔の前で指を鳴らしていた。私は何度か瞬きをして「ごめん、考え事してた」と呟いた。


「また前みたいに白い部屋にいたのか? 頼むからお前まであのおばあちゃんみたいなとこ言わないでくれよ」 

「いや、ちょっと考え事をしてただけだから」

「そっか、とりあえず身体を休める場所を探さないとな。これから夜明けまでの時間が一番冷え込んでくる。このまま外にいたら俺たち凍死するぞ」


 湊はそう言いながら身体を縮こませていた。心なしか元から白かった肌の色が更に白くなっている気がした。でもそれが、寒さのせいなのか、懐中電灯から溢れた光のせいなのか、私には分からなかった。走っていた時には感じなかった肌を突き刺すような冬のつめたさが、今になって私達の身体を襲う。指先が冷たくて、痛い。足の指先の感覚はもう随分前から無かった。ずっと、走り続けることは出来ない。どこかで身体を休めなくてはと思うが、こんなところで眠りについてしまったら、湊の言う通り私達は凍死してしまうだろう。村の中には空き家はあるが、暖房設備もなければ、ただ木材に囲まれたそんな空間にいたところで、外にいるのと然程大差はない。どこか。どこかで身体を休めないと。両手を貝殻のように組み合わせその中に息を吹き込みながら頭を必死に動かしていた時、ふっと思いついた。

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