第11話
「……奈」
寒い、寒い。そう思いながら背にしていた太い幹に身体を預けていると、遠くの方で誰かの声が聞こえた。目を開けて、ゆっくりと顔をあげる。着ていたジャンパーの擦れる音が、いやに響いた。
「……新奈」
声が次第に大きくなり、それに重なるようにして雪を踏みしめる音が聞こえてきた。ひとつじゃない。何人かの声がする。その声のする方に目を向けていると、二人の男の子と女の子が走ってきた。湊と沙羅だった。
「やっとみつけた」
沙羅が笑みを溢している。湊も同じような表情だった。私はそんな二人を下から見上げていた。私を、迎えにきてくれたのだ。そう思ったのと同時に、涙が溢れてきた。
「新奈、どうしたの? 誰かに嫌なことでも言われた?」
心配そうな声音で沙羅が聞いてくる。
「違う……嫌なことは、誰にも言われてない。でも、雪が降る日に皆記憶を無くしちゃってるみたいで、誰も……私のことを覚えてないの」
泣きながらそう訴えかけると、二人はきょとんした顔をする。何を言っているのか分かっていないというような表情だった。
「そっか。なんか、よく分かんないけどとにかく帰ろ? 今日はすっごく寒いし、山の中にもし入っちゃったら二度と戻ってこれないって皆心配してるよ」
沙羅が手を差し伸べてくれて、私はその手を掴んで身体を起こした。立ち上がった私をみると、途端に湊が得意気な顔をする。
「俺がみつけたようなもんだな。後でみんなに自慢しよ」
「はぁ? 新奈がいるって先に言ったの私だよ」
沙羅が顔をしかめたまま、湊の胸を軽く小突いた。
「あっちに新奈がいそうな気がするって俺が言って、沙羅は付いてきただけなんだから、俺がみつけてあげたようなもんだろ?」
「ほんとに湊ってムカつくこと言うよね」
「こっちのセリフだわ」
寸前まで私のことを心配してくれていたことが嘘かのように二人は私をそっちのけで小競り合いを始める。なんだかそれをみていると、自然と笑いが込み上げてきて、ふふっ、と笑った。
「え、新奈どうした?」
恐らく私が流した涙を拭いきれていないままに笑ってしまったものだからか、湊が不思議な生き物をみるかのような目でこちらをみてくる。私はなんでもないよと言って、三人で横並びになって歩き始めた。何かが変わった訳ではなかった。雪が降れば、きっと今日のことだって皆忘れてしまうのだろう。そうなれば、私は寂しさで押し潰されそうになる。でも、少しだけそのことを忘れられた。何かあれば小さな小競り合いをする沙羅と湊。その度に私は二人を宥めて、最後は三人で笑う。それは、春や夏や秋の間にずっと目の前にあった日常の欠片だった。その小さな欠片を、私は雪の中でみつけた気がした。あの時は、楽しかった。幸せだった。その思い出に目を向けていれば、今この瞬間だけはさみしさを忘れられる気がした。
三人で横並びになって施設へと帰る途中に、目の前にいた女性が突然バランスを崩し、倒れかけた瞬間を目にした。手にしていた食材の袋が破れ、野菜や果物が地面に転がっていく。女性は地面に倒れ込む前に手をつき大事には至らなかったが、どうやら雪で覆われていた下には溝があったようで、それに気付かずに足で踏み抜いた際にバランスを崩してしまったようだった。
「大丈夫ですか?」
私と沙羅で女性の元へと駆け寄って声をかける。湊はその間に地面に散らばった野菜や果物を拾い集めてくれていた。女性は自力で溝から足を持ち上げていたが、その際に足を怪我をしてしまったのか右膝を手で押さえていた。
「えぇ、大丈夫。本当に危なかった。足元にはちゃんと注意を向けていないと駄目ね。まさか雪の下に溝があるなんて思いもしなかったわ。あやうく、この子に怪我をさせちゃう所だった」
持ち上げられた手がゆっくりとお腹に添えられて、私達はやっと理解した。後ろからみた時には分からなかったが、間近でみるとベージュのワンピースを着ていた女性のお腹の辺りが、ふっくらと膨らんでいた。
「赤ちゃん、いるんですか?」
沙羅が驚きを隠せないというような表情で女性にそう問いかける。私にも、沙羅の気持ちがよく分かった。妊娠している女性をみるのは、生まれて初めてのことだった。
「えぇ、四ヶ月なのよ」
女性はそう言ってから身体を起こそうとしたので、私と沙羅で少しでも歩きやすくなるようにと肩を支えた。その頃には湊が地面に散らばっていた野菜や果物を全て集めてくれていて、女性は擦り傷程度だが怪我をしているうえに袋も破けてしまっている為に、家まで送り届けてあげることになった。帰り際、女性はお礼に言って私と湊と沙羅の三人に一人ずつオレンジをくれた。満月のようや丸みのあるそれは太陽のような色をしており、嬉しい気持ちが沢山に詰まったそれは、ほのかに熱を持っている気すらして、雪が降り積もった道の中を、それを胸に抱きながら施設へと戻った。
門のところには警備員さんや数人の職員さんと共に、三島さんが立っていた。言葉を発していなくても怒っているのだということが遠目にも分かった。
「その二人を、宿舎まで連れていって下さい」
施設内に入ると同時に、三島さんがそう声をかけると、湊と沙羅は職員さんに連れていかれた。私はひとり残されて、怒られるのだと思った。だが、言葉を浴びさせられる前に、頬を打たれた。ただでさえ冬の空気にさらされて痛かった頬が熱を帯びながら痛みを連れてくる。
「……ごめんなさい」
怖くて、泣きそうだった。
「何に対して謝っているんですか?」
静かな声だった。深い海の底のようなつめたさと静けさを孕んでいる。きっと奥の方には怒りもある。
「私が、勝手に列から飛び出して走っていってしまったことです」
「そうですね。良くないことです、それは分かりますね?」
「はい……よく分かります」
俯きながら言った。
「いいですか?」
三島さんは私の両肩に手を置いた。その力が、少しずつ込められていくのが、分かった。ぎりぎりと骨と肉が締め付けられているようだった。痛い。痛い。
「君は特別なんです。それを、よく分かっていて下さい。今後、もし同じようなことがあれば、施設の外に出ることは二度と禁じます」
込められていた力が、ふっと緩められる。
「痛みは
私は顔をしかめながら肩を押さえていたが、うっすらと開けた目の先には頬を緩める三島さんがいた。私はその時初めて思った。この人の笑顔は、つくりものだと。
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