第16話

「八ヶ月なの」


 歩幅を出来るだけ合わせ横並びになって歩いていた時、私が送る視線の先に気付いたのか女性がぽつりと言う。年は恐らく三十代くらいで、肩の辺りで綺麗に髪を切り揃えており、遠目にみた時も思ったが近くでみるとより綺麗な人だと思った。


「そうなんですね。お腹、大きかったから、そうなのかなって思っていました」


 女性の顔をちらりとみてから途切れ途切れになりながら言って、自分でも変な喋り方をしているなと思う。私は人生のほとんどの時間を施設の中で過ごしてきた為に、その外で生きる人達と話すのは、どうも苦手だった。少し話しただけでも鼓動が早くなり、緊張してしまう。そんな私をみて、女性はふふっと笑った。


「あなた可愛い。この辺の子供じゃないわよね。もしかして妖精達の庭に住んでる子?」

「はい。今日は、あの、ちょっと外に出たくなって村の中を散歩してて」


 やっぱり、そうなのね。と途端に目を輝かせた女性は矢継ぎ早に「時々ね、職員さんと一緒にいる小さな子供たちはみるんだけど、こうやってお話するのは初めてよ」と言う。興奮の色を隠せない様子だった。きっと、村での噂話をそのまま鵜呑みにしているのだろう。雪の妖精に幻想を抱く村の人達の中には、その妖精に取り上げて貰った私達のような子供達にも雪の妖精のような力があり、関わりを持つとご利益があると信じている人達がいる。くだらないと思う。その噂話を信じている女性にではなく、雪の妖精やその子供などというありもしない偶像を崇める信仰に対してだ。噂話には尾ひれがつきやすい。それも、こんな小さな村では噂話に花を咲かせることくらいしかすることがないのだから尚更のことだろう。そんなことを考えていると、女性が足を止めた。木造の民家沿いを歩いていたせいか目の前のコンクリートで出来た家が一際目立ってみえた。黒を基調とした洗練された造りをしており、蜜色の灯りは同じようにガラス窓から溢れてる。


「ここが私の家」と女性が言うので、手にしていた荷物をそっと手渡して「じゃあ、私は失礼します」と言いかけた時だった。


「ねぇ、良かったらあがっていかない?荷物を運んでくれてほんとに助かったからお礼もしたいし」


 え、と声にもならないような声で呟いた時には半ば強引に家の中へと導かれていた。扉を開けると温もった空気の塊がすぐに私を包んでくれて寒さと緊張で強張っていた身体の力が抜ける。玄関で靴を脱ぐとすぐにリビングに通される。天井の高い開けた空間だった。部屋の中央には木製のテーブルがありその奥には大きなテレビが、部屋の片隅では電気ストーブが赤い光と熱を放っていた。施設程のものではないが赤いレンガを組み合わされた暖炉もすぐ傍にはあったが、灰やすす一つ落ちていない所をみると長いこと使われていないようだった。


「そこに座ってちょっと待ってて」


 戸惑いながらも、女性に促されソファに腰を下ろした。赤と黒のチェック柄のソファカバーが掛けられており、なんだか凛花さんに貰ったコートに似ているなと身体を預けながらぼぅっと考えながら、部屋の中を見渡す。テレビやエアコンのリモコンなどの小物はきちんと仕舞われており、窓辺には観葉植物が吊るされていた。清潔感のあるきれいな部屋だなと思っていたら、テレビ台に置かれていた写真立てが目に入った。中の写真には、砂浜に腰を下ろしたまま笑顔を向けている二人の男女が映っている。隣の男性の肩に頭を預けている女性は、凄く幸せそうだった。見入っていると、女性がトレイに二つのカップを載せ、こちらに慎重に歩いてきた。


「はい、お待たせ。良かったらこれ飲んで。今日は一段と寒かったし、あなたそんな薄着だったら尚更寒かったでしょ」


 目の前に湯気の立ち昇る白いカップが置かれる。鼻の奥へと流れてくるその芳醇な香りでコーヒーだと分かった。「頂きます」と小さく頭を下げてから、そのカップを手にして口元へと運ぶ。口の中へと流れてきた熱い液体は苦みを伴っていて、身体の中まで冷えきっていたせいか、それが食道から胃の中へと流れていくのが熱を追いかけていると分かった。


「どう、美味しい?」


 向けられる笑みがとても温かい。それを受け止めた私の心は燐光りんこうを発するかのように光り、ぽぅっと熱を帯びてくる。なんだか、不思議な感じだった。


「私の名前は、百合亜ゆりあっていうの。百合亜でも、百合亜さんでもどっちでもいいわ。あなたのお名前は?」


 尖らせた唇の間から息を吹きかけたあと、カップに入ったコーヒーをゆっくり啜ってから、女性が──百合亜さんが言った。


「私は新奈っていいます」

「にい、な?」

「少し変わった名前だと思うんですけど、新しいに、奈落の奈で、にいなって呼ぶんです」

「そう。今日は本当にありがとね。新奈ちゃん」


 百合亜さんは持ち上げた手を、膝の上で綺麗に整列するように揃えていた私の手の上に重ねた。それから、「そんなに固くならないで」と笑う。大人の女性と話すのは、これが初めてではなかった。施設の中には女性の職員さん達だっている。でも、どの女性よりも柔らかくて温かみがあった。


「あの写真の私の隣にいるのはね、主人なのよ」


 話しながら、私はテレビ台の上に置かれている写真立てに何度も視線を送っていた。その写真の中の女性があまりにも幸せそうな顔をしていたからだ。百合亜さんは、それに気付いていたのだろう。


「百合亜さん、凄く綺麗です。幸せそうで」

「そうね、あの頃は本当に幸せだった」


 少しの間があった。それからその写真をみるにはあまりにも遠くをみるような眼差しを向けて、寂しさを孕んだ笑みを浮かべる。


「半年前に亡くなったのよ。膵臓癌すいぞうがんだった。若いから進行も早くてね、病気が分かってからはあっという間だった。私の妊娠が分かったのと、主人の病気がみつかったのは同じ時期でね、人生最高の瞬間と最悪な瞬間が同時に訪れて、あの時ほど神様を恨んだことはなかった」

「あの、ごめんなさい。私……知らなくて」

「いいの、謝らないで。あなたは何も知らなかったんだから。それにね、主人はこの世を去る前に私に贈り物をくれた。この子がいるから私は生きていける」


 ゆっくり持ち上げられた右手が、お腹の上に添えられた。それでも眼差しは、未だに写真立てに向けられており、もう二度と会うことが出来ないご主人に向けて手を差し伸ばしているようにみえた。その慈愛に満ちた眼差しをぼんやりとみつめていると、百合亜さんは穏やかな笑みを浮かべて「新奈ちゃんは天国ってあると思う?」と問い掛けてきた。


「分かりません」


 少しの間を空けてから呟いた。どう返答すればいいのか分からなかった。


「そうよね、新奈ちゃんくらいの年の子がそんなこと考える訳ないか」

「ごめんなさい」


 私が小さく頭を下げると、百合亜さんは途端に目を丸くし、「えっ、何?謝らないで」と笑みを浮かべた。


「私はね天国ってないと思うの。いや、私が考えている場所のことを天国って呼ぶのならそうなのかもしれないんだけどね、私はこの世界で死んだ人たちは別の世界へと旅立っただけだと思うの。そこでは当たり前のように呼吸をして、笑って、泣いて、今の私達と同じように生活してる。きっとあの人だって、今はそっちの世界で元気に生きてるはず。だから私は悲しむことを辞めた。勿論、大切な人が亡くなって目の前から居なくなってしまう事は悲しいことよ。身体を真っ二つに引き裂かれたみたいにね。でも、だからこそこの世界で生きる私と別の世界へと旅立ったあの人、お互いの事を思ったらただ悲しむんじゃなくて、そんな風に今も元気に生きてるって思う方がいい気がしたのよ」


 私は一言も発する事なく百合亜さんの話を聞いていた。


 ──天国ってあると思う?


 百合亜さんにそう問い掛けられた時、どう答えたらいいのか分からなかったのは、物心ついた頃からあの施設で暮らしてきた私は考えたことすら無かったからだ。生き物なのだから始まりがあれば終わりがあるのは当たり前で、そんなことは分かっていた。分かっていた、つもりだった。でも実際にこんな風に人の死を身近に感じたのは初めてだった。何故か、沙羅の顔が頭の中で過ぎった。私なら耐えられるだろうか。今、いや今じゃなくても、たとえば数日後、数年後に、沙羅を失ってしまった私は百合亜さんのように自分の両足で地を踏み前を向いて立ち上がることが出来るだろうか。いや、無理だ。私は沙羅のいない世界なんて考えられない。生きていけない。帰ったら真っ先に謝ろう。そう思ったのと同時に、百合亜さんは強いと思った。きっと今だって私には考えられない程の悲しみを背負っている。それでも、お腹の中にいる赤ちゃんの為、そして自分の為、旦那さんの為に、必死に生きている。気付いた時には、あの、と言っていた。百合亜さんは首を傾げて「何?」と微笑んだ。


「お腹、赤ちゃんのいるお腹を私も触らせて頂けますか?」


 服の上からでも分かる大きなお腹をみたのは、恐らく村の中でみた二、三度だけ。実際に間近にみたのはこれが初めてで、その神秘的な光景に少しだけでも触れてみたいと思ったのだ。


「勿論よ」と言って、私の手を取り自分の大きなお腹の上へとのせる。


「どう? 動いてるの分かる?」

「ええ、分かります。凄い……ほんとに、お腹の中に赤ちゃんがいるんですね」


 確かに動いていた。手のひらを通してそれを感じた。胎動と言うのよ、と百合亜さんは教えてくれた。人のお腹の中に人がいる。豆粒よりも更に小さな、とても小さな大きさでこの世に生まれた一つの生命は、母体となるお母さんから栄養を貰いながら日々成長していく。そんな我が子を想い、母親は日々を生きていく。これ程までに美しいものがあるだろうか。と涙が出そうになった。私のお母さんもこんな風にお腹の中で私を育ててくれていたのだろう。会いたい、と思った。顔も名前も知らないけれど、私をこの世に産み落としてくれたお母さんに会ってみたいと思った。


「泣いてるの?」


 言われるまで気づかなかった。私は泣いていた。指先で目元を拭うと、吸い付くように肌についていた水滴が指の腹を伝っていく。


「あれ、なんで?」

「大丈夫よ。ほら、おいで」


 肩に回された手が私の腕に添えられて、私は引き寄せられるようにして百合亜さんの肩に頭を預けていた。


「新奈ちゃん、今日会った時からずっと悲しそうな目をしてた。なんかあったんでしょ? そういう時はね、無理して笑わなくていいの。泣きたくなる程悲しい時は、心だって泣き叫んでるんだから、思いっ切り泣いたらいいよ」


 胸の中に降り注ぐ言葉が温かくて、より涙が溢れてきた。今日は、泣いてばかりだ。百合亜さんは、それから何も言わず、ただ優しく頭を撫でてくれた。涙を流し続けているうちに、何故こんなにも百合亜さんと話していると心が温かくなっていくのか分かった。私は、重ねていたのだ。顔も名前すらも知らない、自分の母親のその姿を、私は百合亜さんに重ねていた。

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