第12話
意識が溶ける瞬間というものが、この数日で分かるようになってきた。ひどく気分が悪くて、一先ず顔を洗おうとベッドから身体を起こそうとした所で、耳の奥で金属が擦れるような不快な残響が聴こえたのと同時に、なにかの映像の断片のようなものがみえた。耳を手で抑えたその瞬間、ふっと一瞬だけ意識が溶けた。私は倒れかける寸前に、持たれるようにしながら壁に身体を預け、床にしゃがみ込んだ。
右手を持ち上げる。手が、微かに震えていた。私は一体どうしたというのだろう。時折みえた白い部屋に加え、今は誰かの生活の一部を映像のようにして切り取ったようなものまでみるようになった。それに、以前はさみしさが胸の中に降り積もる時に限ってみる夢を毎日のようにみるようになった。泣き叫びたくなる程に愛おしくて、私はその夢の中で、いつもぬるい粘液の中にいる。身体がすっぽりと収まる膜のようなものに包まれているそのちいさな世界は、粘液で満たされており、ひかりは差し込まない。けれど、くらげみたいに揺蕩う私は、安心して目を閉じている。そして、歌が聴こえる。女の人の、子守り唄のようなもの。私はその歌を歌う誰かに手を伸ばそうとしていつも目が覚める。何かがおかしかった。これまでの人生で経験したことのない数の幻覚や幻聴、夢をみるようになった。心が悲鳴をあげているのは、気付いていた。もしかしたら私の心は、ついに孤独の重みに耐えきれなくなり壊れてしまったのかもしれない。
愛莉と亮太が施設から逃げ出してから一週間が経とうとしていた。施設の職員さん達が総出となり捜索隊を結成したが、二人の痕跡すら見つけることが出来なかったのだと朝の朝礼で子供達全員を前にして三島さんが言った。私は、そんな三島さんに何度もその捜索隊に加えて欲しいと懇願したが「駄目です。家族を見つけたいという気持ちは汲みましょう。けれど、凜花の時に続き、今度は二人。どうして施設から逃げ出す人間の近くにはいつも君がいるのですか? 私は今、君のことを家族だと思えなくなりそうです」と頑なに同じようなことを言われて断られ続け、ついに捜索は昨日打ち切られることになった。
「悲しむ必要なんてないんじゃない? 二人は施設から逃げたくて逃げた訳でしょ? 新奈が二人を心配する気持ちはよく分かるけど、二人を見つけるって事はまた施設に連れ戻すことになるんだよ? 今の所二人に何かがあったっていう情報はないんだし、逃げ切れたなら良かったじゃん」
昨夜、二人でベッドで横になっていた時、恐らく毎日のように私が二人のことを話すものだから、諭すように沙羅が言った。勿論、沙羅が言うことは最もだと思う。施設の職員に見つかるという事は、間違いなくこの場所へと再び戻される事に繋がる。でも、何故かもどかしい気持ちに駆られた。私は、二人の無事が知りたいだけなのだ。そう口にしようとして寸前で止めたのは、本当にそれだけだろうかと自分自身よく分からなかったからだ。一年前に凜花さんが施設から逃げ出し、今度は二人。それに、一年経っても凜花さんは現れなかった。凜花さんが迎えにくると約束をしてくれた日は、今から九日前の日付けだった。ちょうど今年の初雪が降った日だ。私は待ち続けていた。もしかしたら凜花さんがこの地獄から私を連れ出してくれるかもしれない、雪に怯える毎日を今年は過ごさなくてもいいかもしれないと。けれど、凜花さんは現れなかった。期待していた分だけ絶望の闇の中へと堕ちる振り幅も大きかったこともあって今年はいつも以上に死を望んでしまっていたのかもしれない。
「皆、自分勝手だ」
ひとり、ぽつりとそう呟いた。途端に、胸の中でじゃあお前はどうなんだ? と声が聴こえてくる。立場が逆だったら、自分は残してきた人たちの為に施設へと戻って来れるのだろうか。自分が施設から、この村から、逃げ出したいたいと願っているから危険を冒してでも迎えに来て欲しいと思ってはいないだろうか。私は、そうじゃないと断言することが出来るだろうか。そこまで考えて、いや、と思う。きっと私は、自分がこの地獄から一刻も早く抜け出したいだけなのだ。他の誰かがたとえ傷ついたとしても助かりたいと、ほんの数パーセントでも思っていないと言えば、それは嘘になる。私は……自分さえ助かればそれでいいんだ。考えれば考えるほど、闇の中に墜ちていくようで、自分が嫌いになりそうだった。そんな私を嘲笑うかのように、雪が降り始めた。三日前からだった。
この三日の間に降り続けた雪は、はらはらと、まるで時が止まったかのようにゆっくりと舞い落ちる時もあれば、日が昇っている時間なのに数メートル先すらみえない程に勢いが増した時もあった。その結果、今朝にはようやく雪が降り止んでいたが施設の運動場は雪で覆われ、部屋の小窓の向こうでは雪原が広がっていた。周りを取り囲むようにして生い茂っていた針葉樹林は、そのかたちも残したまま雪原から顔を出すように白く染まってる。空から降り注ぐ陽の光がそれらを照らし、降り積もったばかりの新雪が白色とも金色とも言えるようなひかりを辺り一面に散らしてる。
私は部屋の壁に背を預けたまま床に座りこんで足を投げ出し、時折目を
今日は、部屋から一歩も出なかった。そんな気分にはなれなかった。一緒にご飯食べにいこう、何で泣いてるの? 気持ちが沈んでるなら何か悩みがあるなら話聞くよ、と何度も私の背中を揺すりながら訴えかけてきた沙羅にはごめんとだけ告げて、それからは窓辺に視線を投げたままだった。部屋の扉が閉まる少し前、私には何でも話してくれたっていいじゃん、と悲しげに部屋の中に残していった沙羅の声が未だに鼓膜にこびりついていた。
今日は平日で、本来私は施設に住む女の子たちと一緒に皆の朝食の準備をしなければならなかった。それから皆が食べ終えた食器を女の子たちと洗い、それから二時間程かけて聖書をノートに書き写す。昼過ぎからは、皆の前日まで着ていた洋服をこれまた女の子たちと一緒に洗う。作業の合間に数十分の休息を取れることはあるが、ゆったりとした休息は洗濯物を干して終えてようやく取ることが出来る。けれど、それも日が暮れる少し前までのことで、それからは夕飯の支度に取り掛からなければならない。男の子たちは私達には出来ない力仕事をよくしてくれるけれど、私達女子に比べれば一日の作業量は天と地の差がある。なにもおかしいとは思わなかった。私達はずっと、そうやって生きてきたのだから。
物心ついた頃には、私はこの施設にいた。いつからいるのか、分からない。もしかしたら生まれた時からいたのかもしれないし、私に自我が目覚め始める少し前からなのかもしれない。この施設では、自分の出生元を辿ることは禁忌とされていて、職員さん達に両親の顔をみてみたいとお願いしたことは何度かあるが、誰も取り合ってはくれなかった。だから、私は親の顔は勿論のこと、名前すら知らない。それは、沙羅や湊、他の子供達だって同じだ。ただ一つだけ違うのは、私以外の他の子供達全員が自分は母親のお腹の中から妖精に取り上げてもらったという言い伝えを本気で信じていることだ。
こんな訳の分からない言い伝えを信じているなんて馬鹿馬鹿しいと思えるのは、私が雪が降っても記憶を失わないからで、そうでなければ私自身他の子と同じ考えを持っていたと思う。身体も小さく自分の思考すらままならない子供の頃から、私達は妖精の言い伝えを聞かされてきた。知らない間に髪の長さが短くなっていることも、貰った覚えのないお菓子が翌日テーブルの上に置かれていることも、突如として木材を組み合わせ家の形を模したものが村の中に現れた時も、それは全て妖精がやったと大人も子供も口にしていた。幼少期から刷り込まれた思考を塗り替えるのは、並大抵のことでは出来ないと思う。言うならば、子供の頃から神様はいると自分の周りにいる人達全員が口にし、疑うことなく大人になった人に、神様なんていないよ、と諭すようなものだろう。
二年程前に、一度沙羅に面と向かって聞いてみたことがある。食堂で夕飯を食べ終えてから部屋に戻り二人きりになった際に、ずっと疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「ねぇ、沙羅は本当に妖精がいるって信じてるの?」
丸テーブルの前に座り、ちいさなハサミを使って髪の毛先に出来た枝毛を処理していた沙羅は、一瞬目を丸くして、それから笑った。馬鹿にするような笑みではなく、驚いて信じられないというような笑みだった。
「なに言ってんの? 妖精がいなかったからあり得ないことばかりじゃん。昨日は誰も知らない間に施設の外に植物園が出来てたし、冷蔵庫の中から飲み物とか食材が無くなるなんて冬の間は日常茶飯事でしょ? いるかいないかっていう疑問を持つ以前に、いるのが大前提だからふつうそんな疑問持たなくない? 新奈が言ってることって空気って目にはみえないけど実際にあると思う?って聞いてるのと同じだよ? 」
諭されるように言われて、「そっか、そうだよね。」と曖昧に笑った。雪が降る日に、この村の人達は記憶を無くすということも。皆が覚えていないだけで、妖精なんて存在しないということも。そして、私だけが記憶を無くさないということも、沙羅や他の誰かに言ってこなかったのは、こうなることが怖かったからだった。冬の間、雪が降ると妖精が現れ身の回りに悪戯をする。そして悪戯をされた者には、いずれ幸福が訪れる。それが自分の住む世界の常識として生きている人達からみたら、私は異質で、おかしな言動ばかりをしていると、もしかしたら仲間外れにされるかもしれないという怖さがあった。だから、物心ついた頃には私は自分が抱えている孤独を誰にも打ち明けずに自分の中にだけで閉じ込めた。
「私、何言ってんだろ。馬鹿だよね。もう夜だし眠たくなってきて、おかしくなってたのかも。ねぇ、沙羅。さっきの話、私がそう言ってたって誰にも言わないでね」
言いながら笑みを作ってはみたが、上手く笑えたかは分からなかった。沙羅は手にしていたハサミをテーブルの上に置いてから、私の手をそっと握った。それが、ゆっくりと解けていき、指の腹を沿うように流れていった手先が、自然と小指と小指を結び合うようなかたちを作りあげていた。
「言わないよ。新奈が不思議な子って事は私だけが知ってる秘密にしたいから絶対言わない。ほら、約束」
私の小指と、沙羅の小指が結ばれる。
「良かった。皆、雪の妖精が好きだもんね。沙羅も好き?」
私にとってのそれは、何気ない質問だった。話の流れでただ尋ねただけで、そこに意図するものなんて何一つなかったが、沙羅は途端に顔を曇らせた。結ばれていた小指が離される。
「嫌いだよ」
か細く、消え入るような小さな声だった。思わず、え、と聞き返す私の目をみて、沙羅は改めて言った。
「私は、雪の妖精が大嫌い。こんなこと皆には言えないけどさ、もし妖精が私のお母さんのお腹から私を勝手に取り上げなかったら、きっとお母さんは私を自分の子供として認めてくれてたと思うの。そしたら私は、自然に生まれて施設の外にいる子供達みたいに親と一緒に過ごせてた訳でしょ? 妖精は雪が降ると悪戯をするって皆軽い感じで言うけどさ、私からしてみれば両親を奪った悪魔みたいなものだよ」
その言葉が私の鼓膜に触れて、胸の中で火花が散った。熱を帯びた何かが、私の中に生まれた瞬間だった。沙羅は他の子とは違う。皆が雪の妖精に幻想を抱く中、沙羅は悪魔だと言ってくれた。実際は雪の妖精ではなく、ただの雪がその原因だとしても、沙羅の心にあるものと私が雪に対して思う憎しみには近いものを感じた。雪のせいで孤独を感じているのは私だけじゃないんだと、仲間をみつけたような気がして心が晴れ渡っていった。私が生きてきて最も嬉しかった瞬間は、その時と、沙羅と互いに胸の中から溢れ出た気持ちが通じ合った瞬間だった。
窓の向こうで広がる雪原をみながら、謝らないとな、と思った。今朝の私は、ほんとにひどかったと思う。十七年もの間、この冬の間にだけ訪れる地獄のような日々にいよいよ心が孤独の重みに耐えきれなくなっていた所に、三日も雪が降り続いたせいで沙羅とでさえ話したくないと思ってしまった。目が覚めてからずっと、何を言われてもごめんとだけ呟いてほとんど無視をするようなかたちをとってしまったのだ。きっと、傷ついてるよね。ごめんね。胸の中で、ぽつりぽつり呟いて、沙羅の帰りを待っている間に部屋の掃除でもしておこうと思い立った。ちゃんと目をみて謝れば、きっと沙羅は許してくれる。壁に預けていた背中を、私は数時間ぶりに引き剥がした。
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