第7話 胡椒の商人

 少し上擦った声で先輩は言う。


「兎も角だ、大葉くん。カレーと向き合えていないきみにはこれが合うことだろう」


 言うが早いか先輩はカレーのお皿の上に拳を出し、上下に細かく揺らし始める。なにと思って見てみると、ご飯の上に黒い粒々が振りまかれていた。


 クン、と嗅いでみる。あれ、この香り。


「まあまあ。いいからいいから、ほら」

 食べてごらん、と手で促される。


 粒のかかったご飯をスプーンで掬い、少しカレーもつけてから口へと運ぶ。すぐにビリッとした刺激がやってきた。うん、やっぱり思った通りよく知っている味だ。


「これって、胡椒ですか?」


「ほう、よく分かったね。正解だ。ん、どうした大葉くん。意外そうじゃないか」


 新鮮だった。


 何も私だって胡椒を知らないというわけではない。それなりに口にしてきている。でもご飯の上に直接胡椒を振りかける真似はしたことがない。初めてのことだった。


 胡椒がダイレクトに舌と鼻を刺激してくる。カレーに混ぜるのとはまた別物のようだ。気付けばもうひと口と頬張っていた。


「酔った体には丁度良かっただろう」


 ふふふと得意そうに腕を組む。


「消化機能向上。食欲増進に、血行促進。あとはそうだな。刺激的な辛みで酔っていた目も覚めてきたのではないか?」


 胡椒にそんなにたくさんの効能があるとは知らなかった。ただの味付け、香り付けじゃあなかったのか。不思議と食が進む。辛いのが苦手な私だけど酔った舌には程よい辛みだった。喉の奥まで辛さはこない。


 黒い粒を掬う。


 今まで意識したことなんてなかった。胡椒のビンを見ると私の家にあったものだから、珍しくもなんともない。百円かそこらで買える、何処の家庭にもある香辛料。


「胡椒って凄かったんですね」


「侮るなかれ。胡椒はな、それだけではない。その香りと辛みは怒りや不安を和らげる効果を持つ。幸せホルモンが増え、落ち込んだ気分を上げるとも言われている」


 目が丸くなる。そんなになんだと思わず唸った。そして思う。それで先輩は、と。励まそうとしてくれているのだろうか。


「胡椒ひとつ取ってもそうなんだからな。スパイスの集合体であるカレーを食べない道理はないだろう。完全食に近しい。実際に完全栄養食として売り出される程だよ」


 満足気にカレーの偉大さを語る先輩。どうやら私の思い過ごしだったようだ。カレーの話をただしたかっただけなのだろう。その証拠に先輩は胡椒のビンを手に取り、指で弄りながら訊いてくる。


「知ってるかい、大葉くん。胡椒はその昔、金や銀と同価値とされていたことを」


「なんとなくは。習った気がします」


 スプーンを動かし、カレーを食べる。胡椒のおかげで食欲が湧いたのか。それとも蘊蓄話から逃げようとしたのか。私の気持ちを露知らず、蘊蓄が襲ってくる。


「胡椒は広く普及された。もはや軽視されてもいるがな。実際に給金や税金の代わりとして使われたことがあるそうだよ」


 ふふふと笑っている。


「今じゃとても考えられないよな。俺の知り合いにボーナスをスイカで貰ったという人もいるけれど。まあ、稀な話だろうな」


 肩を揺らしながら合わない視線を向けてくるので愛想笑った。カレーがすすむ。減っていくカレーを見守るその視線は、我が子を見守るかの如く思えた。


 愛おしそうにコトリと胡椒を置いた。


「まったく、胡椒の商人には感謝しかないよ」


「胡椒の商人ですか」


 またおかしな事を言い出したとスプーンが止まる。うっかりと止めてしまった。カレーオタクはその隙を見逃さなかった。


「そう、彼ら商人はね。胡椒を、『天国の種子』と称してその価値を維持しようと努めたのだ。が、十二世紀までは通貨の価値があった胡椒も、十三世紀頃には価値が崩落。ショウガよりも安くなったらしい」


 油断したら始まっていた。思わずくらっとした所で、ニコリとほほ笑まれる。


「それが今や百円足らずだ。胡椒の商人たちのことを考えるとな、俺も頭があがらない。彼らはいまどんな気持ちだろうな」

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