第4話 掬ったカレー
恐る恐る、缶に口をつける。
コクリ。
あ、甘い。思ったより飲みやすかった。スイスイと喉を通っていく。まるでジュースみたい。本当にこんなもので記憶が飛ぶの? 気を紛らわせてくれるだろうか。
心のつらさがすこしでも癒えるように。誤魔化せるようにと願いながらクイックイッと缶を傾けていく。一缶を空ける頃には体がカッカッと熱くなっていた。
火照るようだ。頭がふわっとして遅い。動きがゆっくりになっているのがわかる。何だか不思議な感覚だ。ワケもなく可笑しくなってきて、クスクスあははと笑った。
何が芋っぽいだ。どの口が言うんだ。グイッと缶を傾けても、もう空っぽだった。ブンブン振ってみても空っぽ。何よと投げる。空き缶は壁にカンと当たって落ちた。
もう一缶に手が伸びる。
すると今度は無性に悲しくなってきて歯止めが効かなかった。涙がでる。声を出して、わんわんと泣いた。
私はこんなにも泣けるんだ。
自分でもびっくりするほど泣いていた。すこし落ち着いてきてグスグスとしゃくり上げる。わあと泣いたせいか、お酒のせいか。部屋が、体が熱を持っている。
窓を開けようと立ち上がった。ふらっと身体がよろつく。フワフワした物の中に沈んだような感覚だ。動きが鈍い。
もうすっかり日は沈んで真っ暗だった。夜が訪れていた。カラカラと窓を開け、頼りない足取りでベランダに出る。
風に当たりたかった。柵に手を伸ばしたら、サワッと頬をなでていく。
「もう、死んじゃおっかな」
暗闇に呑まれたのか、そうつぶやいた。本気でそう思っていたわけじゃなかった。すこし大きな事を言ってみたかっただけ。なのに、それも悪くないと思う私がいる。
案外、そういうものかもしれなかった。
ほんの思いつきで魔が差してしまう。人が飛ぶ切っ掛けなんてそんな簡単な心のはずみ、衝動なのかもしれない。
柵を掴む手にぐっと力がはいった瞬間。
「ここから落ちたら、死ぬだろうな」
声がした。
男の声だ。驚いたけれど、身体は鈍くて反応が遅れてしまう。首を回して声をたどると、隣のベランダに白い塊が見えた。
焦点が合ってくる。男がひとり座り込んでいるようだった。あれはお隣さんか。ぼさぼさ頭に真っ白な服。白衣? お医者さん? ベージュのチノパンは胡座をかいて座っているようだった。
とくにイケメンというわけではない。黒縁メガネをかけた若い男だった。その男は空を眺めていた視線をこちらに向けてくしゃりと顔を崩し、悲しそうな面持ちになる。
私はすこし、高揚したのだと思う。
ふらっと死に片足をかけた所で現れるだなんて、まるでドラマのようじゃないか。私はいま、悲劇のヒロインになっている。
ちょっと冴えなく見える男だけれど、この男は一体どんな言葉で私を引き止めようとしてくれるだろうか。
男はさも悲しそうに言った。
「やめといた方がいい。死んだらカレーが食えなくなるぞ」
は?
「え、……カレー?」
聞き間違いだろうか。私が死ぬかもしれないっていうこの瞬間に。この男はカレーを気にかけているとでもいうのだろうか。
まさか、そんな。
「カレーって、カレー?」
「そう、カレーだ」
男は手をあげた。その手にはきらりと光る銀のスプーンが握られている。よく見ると胡座をかいた足の上にはお皿があって、そこにはカレーが盛られていた。
カッと頭に血が上り、怒る。
「カレーなんてどうでもいいでしょ!」
思わず柵から手を離し、男の方に詰め寄っていた。足もとは覚束なかった。
カツン、と男はスプーンを置き、
「それはちょっと聞き捨てならないな」
私の足もとをちらと見る。
「きみ、すこし酔ってるな。メシは。ご飯は食ったのか?」
なんでそんなこと。口を横に曲げて首を左右にふる。振られたショックで食欲なんて湧くはずもなかった。あの時のパスタだってほとんど口にしていない。
「だと思った」
男はうなずき、言う。
「カレーを食わないから、死にたくもなるんだ」
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