おでん
「この子が女の子だったら、まゆこって名前にしようと思ってたんだ」
名付けの相談はきっぱり辞退したはずなのに、
しかも、「やめてよ。それ、私の名前」
「だめ?」
きょとんと首を傾げても、だめだよ。
「
「言ってないよ。
その子の父親で、あんたの旦那だからでしょ。
「未冬こそ、なんで私なの。すでに別れた相手で、今はもう、何もない」
「なくないよ」
未冬はよく通る声で言った。
「恋人じゃなくなったって、茉侑子があたしの幼なじみって事実は一生変わらないし、大切な人に変わりない」
「自分勝手すぎるよ」
気が付いたら私の声は震えていた。
「あの時だってそう。あんたは勝手に何でもかんでも自分で決めちゃったよね」
◆
それはなんの変哲もない夕食の時間だった。
「あたし、女に生まれたからには赤ちゃん産んでみたいんだよね」
未冬は私の家に入り浸りの状態だったから、自宅での二人の夕食は珍しい光景ではなかった。
その日のメインメニューはおでん。ダイニングテーブルに鍋ごと出して、おのおの好きな具材を取るスタイルだった。
「赤ちゃん?」
「そう。子供、欲しいよね〜」
私は何となく話を聞きながら、箸でつかもうとするとツルツル逃げるコンニャクと格闘していた。これは、大きく切りすぎちゃったな。
「子供かあ」
子供だとか言われても、フワッとしたイメージくらいしか持てなかった。現実味がなさすぎて。
お互いまだ24歳だったし、未冬はまだ先の未来の話をしてる、くらいに思った。
「妊娠して、出産して、子育てして、っていうのに昔から憧れがあるんだよ」
未冬は熱弁を続ける。
「子供連れてディズニー行くのとか、夢だし」
「それはわかるかも」
小さい子がキャラクターのカチューシャ付けてる姿は、かわいいし私も好き。
暴れるコンニャクをなんとか攻略して、箸でつかみ上げた。ぷるぷる震わせながら、慎重に口へと運ぶ。
「だから、別れてほしいの」
「え?」
コンニャクが皿の上にベタリと落下した。
「産みたいなら早く行動したほうがいいでしょ? だから決めちゃった。年度末で退職したいって話も、もう課長にはしてある」
「え、べつに仕事辞めなくても」
じゃなくて。
「待って。なんで別れるって話になったの?」
「だって茉侑子とじゃ赤ちゃん作れないから」
「は」
あんぐり口を開けてしまった。
「いや、待ってよ。なんでまず私に相談してくれないの? それに今、家族形態も多様化してることだし、別れなくたって、何か方法を考えれば」
「そうかもしれないね」
未冬はあっさりと引き退がった、ように見えたけれど、違った。未冬の言葉はそこでは終わっていなかった。
「でも、あたしの場合、子供を産んでみたいって動機が完全なるエゴなんだよ。エゴだって分かってるからこそ、産まれてくる子のためにせめてもの環境だけは整えるべきだと思う」
「どういうこと……」
「子と血の繋がった父親と母親が揃っていて、その両親が生計を同一としていて、かつ籍を入れていて、っていう条件は揃えたい」
聞きながら、胃がふわふわ浮遊してるみたいに落ち着かなかった。有罪判決を下される被疑者って、こんな気分なんだろうか。
私には思い付かなかった。別れるという選択を回避し、かつ、未冬にも納得してもらえるような、そんな起死回生の一手なんてものは。
「そっか、私が悪いんだ」
苦しまぎれに出てきたのは、憎まれ口だった。
分かってる、負け惜しみだ。目に涙が浮かんでくる。
「私が女だから悪いんだ。女の私じゃ、逆立ちしても精子なんて作れないから」
「え、男の人って精子つくるときにいつも逆立ちしてるの? 回転倒立みたいな?」
「なに言ってんの?」
ふざけているのかと思って顔を上げると、未冬はきょとんとした目でこちらをまっすぐ見ていた。今の発言のどこがおかしいのか本当にわからない、という顔だ。
私は思わず額を押さえた。
「……逆立ちしても、ってのは、ただの慣用句だから」
説明しながら頭痛を覚える。未冬の顔を見ると、照れくさそうに笑っていた。
「慣用句……あ、そっか。普通に考えてそうじゃん。あたしバカすぎない? ほんと恥ずかしいんだけど」
最早、なにも言えない。このあとどう話を続けたらいいのか、完全に分からなくなってしまった。
未冬は「あ!」と言っていきなり立ち上がった。
「忘れてた! ソーセージ! おでんに入れようと思ってたやつ!」
「あ……」
そういえば冷蔵庫の中にそんなものもあったっけ。
「お鍋、いったん引き上げていい? 足してくる」
「え、話は……」
「とりあえずあとで!」
こんな話を、ソーセージのおでんを前にして仕切り直すつもりなのか。
めまいがしてくる。
「……もう、いいよ」
私は、鍋を手にキッチンへ向かう未冬の背中に向かって言った。
「別れればいいんでしょ」
ピタリ、と未冬の動きが止まる。
ゆっくりと振り返った未冬の顔を、私はまともに見ることができなかった。
「……ごめんね、茉侑子。ずっとずっと、茉侑子のこと大好きだからね」
そんなことを言われたのは、この時が人生で初めてだった。
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