第8話 搾乳しすぎて腱鞘炎になった件。

 私が働きはじめて最初の秋が来るころに、ついに先輩になるチャンスが来た。

 スーパーだと夏季限定臨時学生バイトさん来ることが多かったけれど、農業は新人が全然来ない。来たとしてもハローワークでなく、親戚や友人の紹介だ。

 イチローさんの、知り合いの知り合い枠の人が来た。

 30代半ばの男性。私より10歳近く年上だ。

 イチローさんには「ちはや、先輩になるんだから仕事教えてあげるんだぞ」と言われた。

 ネコタさんが新人さんに60kgオーバーの藁ロール運搬を教えている。餌やり全体の触り程度の仕事だ。

 私は搾乳担当。

 搾乳機のセットをしていざ搾乳開始! と思っていたら


「きついんで辞めます」


 新人さんは餌やり体験一時間で辞めた。

 数ヶ月後、新たに一人現れたけれど同じく数時間で辞めた。


 私は毎日これをやっている農家さんを心から尊敬する。

 


 そして就農してから季節が一巡りして冬。朝起きたら、指が牛の乳首を掴む形で固まっていた。

 乳首の太さで言うとサンマかイワシ。サンマを掴んで手から引き抜いてくれ。それが私の腱鞘炎の形だ。両手そうなった。

 毎日ディッピングして手搾りで病気の有無を確認して……を朝晩数十頭もみ続けた結果、手がその形に固まった。しかも真冬は外気温0度を下回るから、酷使された手が悲鳴を上げていた。



 あまりの痛さで泣いた。両手の指が開かないから車のハンドルも握れない。でもこれから朝の搾乳がある。個人経営の小さな牛舎に代理出勤してくれるシフトの空いた人材はいない。


「腱鞘炎、つまり筋肉のこわばり!」


 足りない頭で考えた結果、手首で蛇口をひねって鍋に湯を沸かして、お湯の中に手をぶっこんだ。1ミリも開かなかった指が開いた。


※間違った対処法です。良い子は真似しないでください。鍋に突っ込むのだめ絶対。病院行け。


 出勤時間が迫っているから車に飛び乗って牛舎に急いだ。


「助けてください手が痛い!」

「みんなそうだよ。職業病職業病」


 見せてくれたイチローさん、ミドリさん、ネコタさんの手も似たようにゆるく握った形でこわばっている。


「代わりの人はいない。搾乳しないわけにはいかない。諦めろ」


 痛すぎて狂いそうだけど、無理やり手を開いて搾乳担当に入る。結局退職するまで何年も手を酷使し続けた。

 辞めない限り安静は不可能だし、外科で「なんでこんなにひどい腱鞘炎になったんだ」と聞かれて「牛の乳を揉みすぎたからです」と説明するの、めちゃくちゃ言いにくいわい。



 もう何年も前に牧場を辞めたのに、パソコンのキーボードを打つとき、薬指と小指がこわばってカクつく。

 そして冬になるたび牛の乳を握る形で腱鞘炎がぶり返す。体に刻み込まれてしまっているのです。


 たぶん初めて腱鞘炎になった日のうちに病院に行っていたとしたら、治療に専念することと、手術するように言われていただろう。

 こんなになっても続けている酪農現場のみんなはすごい。


 牛乳1ℓが150円〜200円くらいで店頭に並んでいるのって安すぎる気がする。

 もっと乳製品は高くていいわよ。酪農の仕事をするようになってからずっと思ってます。

 毎日牛に蹴られうんこまみれになって仕事してるんだから。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る