第十五話 憤怒地獄(サタン)

 古代ローマの円形闘技場から外に出ると、そこは「石」の町。レンガを積み上げた建造物が軒を連ねて立ち並んでいた。


「凄い――」


 俺、愛洲玲寿にとって、全く初見、未知の光景だった。そのはずだった。しかし、先程までいた建物を鑑みれば、どこの町並みなのかは容易に想像が付いた。


「ローマ? イタリアの首都じゃなくって、古代の方の」

「うん」


 俺が既知の国名を告げると、ユラが小さく頷いた。


 今、俺は古代の大都市の中にいる。その事実を意識するほどに、俺の心は興奮と好奇心でピョンピョン躍った。その一方で、強い違和感も覚えていた。


 ここって、本物の古代ローマじゃない。絶対に魔界だ。


 町の住民が、明らかに人間ではなかった。俺の視界に映っていたのは、犬頭の小男とか、牛頭の大男だった。

 前者は「コボルト」、後者は「ミノタウロス」という魔物だ。それを見た瞬間、俺の脳内に「餓鬼のような小人」と、「豚面の大男」が閃いた。


 あの人達も、色欲地獄の「ゴブリン」や「オーク」みたいな領民兼、領主(悪魔)の眷属なんだろうなあ。


 現在地は間違いなく魔界。その事実を確信して尚、いや、その「異世界的要素」が、俺の好奇心をより一層強く掻き立てた。その衝動に衝き動かされるまま、俺は周りをキョロキョロ見回していた。その最中、


「玲君」

「!」


 唐突にユラから声を掛けられた。それと同時に、彼女と繋いでいた右手がグイと引っ張られた。


「ちょっと、歩こうよ」

「え? あっ!!」


 ユラの言葉を聞いて、それで漸く「自分達が未だ、円形闘技場の出入り口に止まっている」という間抜けな状況を直感した。


「分かった」


 俺は全力で首肯して、即座に移動開始した。


 俺達は仲良く手を繋いだまま、都市のメインストリートと思しき大道を歩いた。

 大道を挟む左右を見ると、古代ローマの家屋が延々続いていた。


 憤怒地獄って、古代ローマを模した場所なんだな。


 俺は現況を鑑みて、そのように結論付けた。ところが、暫く歩いていく内、石製だった家屋が、いつの間にやら木製に代わっていた。


「あれ?」


 一瞬、俺は色欲地獄の光景(中世日本のそれ)を想起した。しかし、よく見ると建築様式が違った。しかも、それぞれの建物の配置が「碁盤の目」のように整えられていた。


 京都? 平安京? いや、何か違うような?


 俺は違和感を覚えながら、ユラと一緒に整地された大道を歩き続けた。その最中、俺の視界に二足歩行する大蜥蜴が飛び込んできた。


 あれって、「リザードマン」では?


 町の住民はリザードマンと、下半身大蛇の女性、「ラミア」に代わっていた。


 え? コボルトは? ミノタウロスは? 古代ローマはどこ?


 俺は足を止めて背後を振り返った。すると、少し離れた場所に古代ローマの街が有った。


「????」


 唐突に街並みが変わった。住民も変わった。その事実に驚いて、俺は何度も前後を振り返った。すると、俺の隣から「くくっ」と忍び笑いが聞こえた。それを直感して、俺は直ぐ様「笑い声の発生源」を見た。

 ユラは、俺を横目で見ながら、心底楽しそうに笑った。


「あははは」

「…………」


 俺はジト目でユラを睨んだ。すると、ユラはニンマリと「意地悪」を絵に描いたような笑みを浮かべて、現況の意味を教えてくれた。


「ここは、憤怒地獄の中に有る、『嫉妬地獄(リバイアサン)地区』なの」

「え?」

「因みに、さっきまでいた場所は『傲慢地獄(ルシフェル)地区』だよ」

「???」


 憤怒地獄の中に、別の地獄が複数個存在していた。それが事実であることは見れば分かった。しかし、「そのように創られた理由」は、俺には全く分からなかった。


「どう言うこと?」


 俺は「サッパリ分からん」と、首を頻りに捻った。すると、ユラは俺の理解力を慮ったらしく、憤怒地獄を理解する為の幾つかの情報を提供してくれた。


「憤怒地獄はね――特別なの」

「特別?」

「ここは『始まりの地獄』なの」

「始まり? 最初に創られたってこと?」


 ユラは、俺に気遣ってくれていたのだろう。しかし、俺には少々難解だった。ずっと首を傾げていた。

 これが学校の授業であったなら、「じゃ、次、分かる人宜しく」と、着席を促されていたところだ。

 しかし、ユラは諦めなかった。俺が理解できるまで、トコトン付き合ってくれた。


「うん。だから、ここは魔界に有る地獄、ううん、地球の文化の研究所みたいな場所なの」

「研究所?」

「何て言えば良いかな? えっと、地球文化の坩堝? それとも、文化の集積地かな?」

「世界中の文化が憤怒地獄に集まっているってこと?」

「うん、まあ、そんな感じ」

「なるほど」


 魔界の各都市(地獄)は、魔王達が地球文化を学ぶ為に創られたものだった。

 ユラの言葉を理解するほどに、俺の好奇心は一層激しく騒ぎ出した。


「凄いな。俺の知らない場所、時代、世界中の、色んな文化が集まっているのか」

「ね、面白そうでしょ?」

「うん」


 俺は地区の境に立って、改めて周りを見渡した。

 俺の後ろに古代ローマ市街が広がっていた。俺の前には古代中国、城塞都市の町並みが広がっていた。


 世界中の、色んな場所の、色んな時代の、色んな文化が――ここに有るっ!?


 現在地は、全ての地獄、魔王が選んだ様々な時代の、様々な都市が集まっている。

その事実に想いを馳せ、周りの光景に見入っている内、俺の脳内に中世日本の城下町が閃いた。


「もしかして、色欲地獄も――」

「うん、有るよ」


 俺の質問に対して、ユラは即応で首肯した。その反応を見聞きした瞬間、俺の好奇心が一層激しく蠢き出した。


「ここから近いの?」


 俺は「行く気満々」でユラに場所を確認した。すると、彼女は「待ってました」とばかりにニンマリ笑みを浮かべた。


「行ってみる?」

「うんっ」


 悪魔の誘惑に、俺は全力で屈した。


 俺達は互いに繋いだ手を前後に振り、スキップしながら当該地区へ向かった。

 程無くして、和風の家屋群が現れた。その途端、急に前に進みにくくなった。

 これまで開けていた大道は、いつの間にか迷路になっていた。その入り組んだ構造こそ、中世日本の城下町(主に戦国時代)の特徴だった。


 日本の城下町は「城を守る防衛機構」と考えられていた。要するに、町も城を守る城壁の一部だった。

 城主(領主)の頭には「町を守る」という考えなど無かった。その事実を想起する度、「平和って良いな」と、今の時代に生まれた幸運を感謝したくなる。

 しかし、それはそれとして、日本の文化、歴史を体感する経験は、俺にとっては至福の時間だった。


 ああ、日本人に生まれて良かった。


 中世日本の城下町を散策していると、俺の遺伝子に摺り込まれたプリミティブな感情、先祖伝来の郷愁が刺激された。その感覚は、俺に精神的な感動と満足感を覚えさせた。

 しかし、「それ」だけで満たされるほど、生物の業は浅くは無かった。

 

 腹が、減った。


 幸せ気分で歩いている最中、唐突に俺の腹が鳴った。それを聞いた瞬間、俺の体、胃袋が「食欲を満たせ」と、俺に向かって猛抗議を始めた。


(飯、飯、飯、早く寄越せ)


 胃袋の主張は凄まじく、俺の自制心は徳俵のギリギリまで追い詰められていた。


 このままでは、道端の草を食いかねない。


 俺は野生化した自分の姿を想像して、その無様な姿に強い忌避感を覚えた。その想いが、俺の口を衝いて出た。


「あの、そろそろ――」


 俺は食事を提案するつもりだった。しかし、俺の言葉はユラによって遮られた。


「ご飯にしよっか?」

「!?」


 これぞ「渡りに船」か。俺はユラの提案に全力で乗るつもりだった。その意思を込めて彼女の方を見た。

 すると、ユラは右手を掲げて、前方を指差していた。それを視線で負っていくと、「めし」と書かれた暖簾に辿り着いた。


 あれは――料理屋か?


 そこは、江戸時代の小料理屋だった。それを直感した瞬間、俺の胃袋が歓喜の雄叫びを上げた。その騒音で腹が震えた。その奇怪な現象が俺の全身に伝播しようとした――そのとき、ユラと繋いだ右手が引っ張られた。


「行こう」


 ユラは、俺を飯屋に引き込もうとした。それを拒む気持ちは、今の俺には全く無かった。


「うんっ」


 俺はユラに手を引かれるまま、「めし」と書かれた暖簾を潜って中に入った。

 その瞬間、日本人の遺伝子に刷り込まれた懐かしい匂いが、俺の鼻を突いた。


 これは、味噌、そして、醤油の匂い。


 毎朝自室を出る度、俺の鼻腔をくすぐるプリミティブな刺激。それを嗅いでしまった以上、俺に「食事をしない」という選択肢は無かった。


 幸いにして、中に他の客はいなかった。どこでも好きな席に座れた。俺は、ユラに導かれるまま、中央に据えられた多人数用の長卓へと移動した。


 俺達が席に着くと、直ぐに店員と思しきゴブリンがやってきた。

 ゴブリンは、色欲地獄に於いてはユラの配下、眷属だ。彼女の姿を見ると、彼らは直ぐに跪いていた。ところが、


「いらっしゃいませ、何になさいますか?」

「!?」


 ゴブリン(店員)は、ユラを見ても傅こうとはしなかった。店員らしい営業スマイルを浮かべて、マニュアル通りに注文を取った。その態度や言動に、俺は強い違和感を覚えた。


 この魔物って、本当にゴブリン? 別種じゃないのか?


 俺は反射的にゴブリンの親玉、色欲地獄の領主を見た。ところが、ユラは特に気にしていない様子で、


「ね、玲君。何にしよっか?」


 机上に乗った「木製の献立表」を見ながら、俺に選択を迫っていた。


 まあ、ユラが気にしないのなら、別に良いか。


 俺は「これで良いのだろう」と割り切って、ユラが指し示していた献立表を覗き込んだ。その直後、


「えっと――え?」


 俺は困惑した。字が読めなかった。日本人なのに、日本語が読めなかったのだ。

 しかし、それを「恥」と罵らないで欲しい。何故ならば、献立と思しきものは、「草書」と思しきミミズがのたくったような字が並んでいたからだ。


 訳が分からん。


 俺は辛うじて読めた「魚」、「飯」という字を頼りに、


「じゃ、これ」


 適当に指差してしまった。その選択に対して、強い不安を覚えた。思わずユラの方を見て、彼女の反応を窺った。すると、


「私も同じもので」


 ユラは俺に合わせてくれた。その反応を直感して、俺は「ユラが同じものを食べるのなら」と、そっと安堵の溜息を吐いた。


 ユラのお陰で、料理の注文に対する不安は解消された。俺は掌をドリルのように回転して、ゴブリン料理に期待を寄せて、それが運ばれてくるのを一日千秋の想いで待った。

 暫くすると、俺の鼻腔に「煮詰めた醤油と味醂、そして酒の匂い」が入り込んできた。


 これは――煮魚か?


 俺は自分の嗅覚に集中して、注文した料理を予想した。そこに、二人のゴブリン給仕がやってきて、「匂いの元」を卓上に並べた。


 俺達の予想は的中、「煮魚定食」だった。

 主食の煮魚は、魔界近海で獲られたであろう南国特有の極彩色のものだった。それには一緒に煮たと思しき生姜が添えられていた。


 見た目はあれだが、とっても美味しそう。


 視覚以外の全ての感覚が、「絶対美味い」と主張していた。しかし、美味しそうなものは主菜だけではなかった。

 主食のご飯は、白米ではなく玄米だった。副菜は、多種多様な根菜類の糠漬け。汁物は、多種多様な海藻が入った味噌汁だった。

 正に、「山と海の幸の宝箱」。それらを目にした瞬間、俺の心は弾んだ。


 早く、早く食べたい。


 俺の右手が、箸立てに刺さった箸群に伸びた。それに遅れて、ユラの右手が伸びてきた。

 箸を抜いたのは、俺の方が先だった。俺の心中には、今直ぐ料理に齧り付きたい想いが溢れていた。しかし、俺は待った。


 ユラと一緒に食べた方が、絶対に美味しい。


 俺は「誰かと一緒に食事する幸福」を知っていた。それを知り得たことは、俺にとっては幸運だった。その幸運を、手放すようなことはしたくない。

 だからこそ、ユラを待った。彼女が両手を合わせたところで、俺も一緒に両手を合わせた。


「「頂きます」」


 俺達は一緒に食前の挨拶をした。その一言が、俺の食欲のタガを外した。


 もう、我慢しなくても良いんだ。


 俺の箸が、超速で卓上を奔った。その箸先が、極彩色の煮魚の腹に刺さった。

その瞬間、箸先が吸い込まれた。


「!?」


 殆ど力を込めていないのに、箸がドンドン埋っていく。


 何て、柔らかいんだ。


 俺は初めて遭遇した感触に感動を覚えながらも、勢い良く身を穿り、千切りとった肉片を口の中に放り込んだ。

 その瞬間、俺の口内に濃厚な甘辛い煮きり醤油の味と、ミネラルたっぷりの磯の風味が広がった。


 美味い、これは美味い。


 ゴブリンの煮魚は、日本人のプリミティブな味覚を刺激した。その感覚は、ユラの料理を食べたときと似ていた。だからこそ、既視感を覚えた。

 しかし、それは「今」のユラの料理に対するものではなかった。


 これって、ユラが家に来たばかりの頃の料理の味付けだな。


 今のユラの料理は、俺の舌に合わせて改変されていた。最初期のものは、洗練されていたが、特徴が乏しい「万人向け」と言うべきものだった。

 過去の記憶を想起した瞬間、俺の舌の上で「昔のユラの味」が、「現在食している煮魚定食の味」と重なった。


「懐かしい」


 思わず独り言を零してしまった。それは、ユラの耳にも入っていた。


「そう? ふふふっ」


 ユラは笑みを漏らしていた。その反応を直感して、彼女も同じことを考えているように錯覚した。それを確かめたい気持ちも湧いた。

 しかし、その程度で箸が止まるほど、俺の食欲はぜい弱ではなかった。


 がつがつがつがつがつがつがつがつ。


 俺は食欲に駆られるまま徹底的に煮魚定食を味わい尽くした。その内、口に入るものは食器以外無くなっていた。煮魚に至っては骨すら、影も形も残っていなかった。

 ぺんぺん草も生えないほど、空虚な有様だった。その惨状を視覚で確認したところで、俺は手を合わせた。


「「ご馳走様」」


 俺が食後の挨拶をすると、ユラの声と重なった。その直後、食堂の奥からゴブリン給仕が現れて、俺達の卓に茶を並べた。


 ああ、お茶が美味しい。


 俺達は食後の茶を頂きながら食後の余韻に浸った。その最中、唐突にユラが声を上げた。


「ね?」

「うん?」

「これからどうする? 他のところ(地区)にも行く?」

「えっと――」


 魔界観光。その提案には魅力を覚えた。叶うならば、気が済むまで憤怒地獄観光を楽しみたいところだ。しかし、


「明日のことが有るから、今は我慢する」

「そっか」


 俺は断腸の想いでユラの提案を断った。すると、ユラはニッコリ微笑みながら、


「じゃ、今日は『ここ』で泊まっていこうか」


 現況、色欲地獄地区での宿泊を提案した。それを聞いて、俺は即応で首肯した。


 俺達は、地区内に有ったオークが経営する「旅籠」にチェックインした。そこも、幸いにして他の客はいなかった。


「折角ですから」


 俺達は二階に有る「最上級」と思しき十六畳の広間に案内された。


 夕食時には、旅籠の料理人自慢のご馳走を振舞われた。食後は、隣の「銭湯」を存分に楽しんだ。心行くまで慰労してから、再び部屋に戻ってきた。そこで、


「それじゃ、ちょっとだけ明日のことを話し合おっか」


 ユラの提案で、少しだけ作戦会議をした。その最中、俺は睡魔に襲われて、ウツラウツラと舟を漕いでしまった。すると、


「それじゃ、今日はこの辺で寝よっか」


 ユラが閉会を宣言して、俺達は用意されていた布団に潜り込んだ。


 ああ、明日から試合か。


 俺はユラと一緒に敷布団に横たわりながら、明日の試合の内容を、あれやこれやと想像した。いや、しようとした。ところが、


「明日の分の魔力を補充しないとね」


 ユラは意地悪そうに微笑みながら俺に身を寄せて、思い切り抱き付いた。


「――――――――っ!!」


 ユラの体から伝わる刺激が、俺の獣欲を滾らせた。

 獣欲は、俺の中で散々に暴れまくった。その勢いに圧倒されて、俺を襲っていた眠気が這う這うの体で逃げ出した。


 ね、眠れない。


 俺は心中で暴れる獣欲に、必死で抗った。その戦いに疲れ果て、それで漸く眠りに就くことが――でき――……た。


 第十六話に続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る