第十話 愛洲家の食卓

 啼鶯小中学生の朝は早い。平均的な起床時間は午前六時。

 俺、愛洲玲寿は、故有って平均的な生徒に憧れている。その為か、今日もその時間に目が覚めた。

 その瞬間、クールミントを噛み締めたような爽快感が全身を突き抜けた。


 気持ち良い。


 俺の体に溜まっていた諸々の老廃物が、全て吸い尽くされたようだ。その為か、体内で活力が漲っていた。


 何故、こんなに元気なのか?


 昨夜の出来事(淫魔と同衾)を想起すると、有り得ない事態だと思わなくもない。「あの後何が有ったのか?」と考えると、不安が募って止まない。その衝動に駆られるまま、俺は布団を剥いで現況(或いは『元凶』)を確認した。


 誰も、いない。

 

 ユラの姿は無かった。そもそも、彼女は俺より先に寝付いている。

 毎度、ユラは俺より先に起きて、俺が起きる頃には部屋を出ていた。その事実を思うと、少しばかりの安堵と、少なからず寂しさを覚えた。


 何かこう、ユラに捨てられたような気になるのだが。


 俺は勝手な妄想をして、それに未練を覚えた。そのせいで、布団の中から出たくなくなった。

 しかし、いつまでも布団に縛られているほど、啼鶯小中学生は暇ではなかった。


「よしっ、行くか」


 俺は登校時の最難所、朋萌山に挑むべく、気合を入れて勢い良く立ち上がった。

 すると、俺の体が「ポンッ」と浮き上がった。そのように錯覚するほど体が軽くなっていた。


 一体、何をしたら、こんなに軽くなるものか。


 俺は現況に対して様々な可能性を想像した。その中に、「夢精」も有った。それが閃いた瞬間、俺は超速で下着の中を確認した。


 …………クリア。


 下着の中は「平常」だった。汚れていなかった。その代わり、「俺の分身」とも言うべき箇所が、驚くほど元気が無かった。


 何かこう、とても疲れているような?


 現況の意味を考えると、とても怖い可能性が閃いた。それを確認したい衝動に駆られた。実際、過去にユラに尋ねたことが有った。ところが、


「内緒。ただ――」


 例によって、はぐらかされてしまった。しかし、今回に限っては、思わせぶりな表現で「ユラの仕業」であることは明言されていた。


「玲君から貰ったものは、全部『保管』してあるから」

「え?」


 保管。それが何かと想像すると、嫌な可能性しか閃かなかった。


 これは、「聞かない方が良いやつ」だな。


 俺は「分かった」と返事をするに止めた。以降、この件に付いては、どんなに気になろうとも、気にしないよう努めることにした。

 尤も、「不満が全く無い」という訳では、当然無い。


 秘密とか、内緒とか、ユラは隠し事ばかりだな。


 ユラの隠し事が増える度、それに比例して、俺の不満や不安も溜まっていく。それらが解消される日は、果たして来るのか否か。考えるほどに、憂うつさが募った。


「はぁ」


 俺は溜息を吐きながら、登校の準備を開始した。


 先ず、俺は寝間着(パジャマ)を脱いだ。それらを一箇所にまとめてから、押し入れの襖を開いた。

 物置上段に設置した物干し竿には、啼鶯中の制服とワイシャツが掛かっていた。それらに袖を通して、箪笥から出した靴下を履いた。

 これが、スタンダードな啼鶯中学生の勉強形態だった。

 啼鶯中学生は皆、この姿で町内最高峰の山に登る。その事実を想う度、「こんな規則を作った奴は鬼か」と恨み言を言いたくなる。その想いを堪えながら、俺は昨日の内に勉強机の上に置いた学生鞄(スポーツバッグ)を肩に掛けた。

 これが、俺の通学スタイル。

 後は、スニーカーを履いて、愛車に跨れば、いつでも登校できた。

 しかし、未だ家の中でやることが残っている。それを実行する為に、俺は右手に寝間着を掴んで自室を出た。その直後、


 あ、布団出しっ放しだ。


 俺は踵を返した。いや、返そうとした。

 ところが、俺が外気に触れた瞬間、俺の鼻腔に「美味しそうな匂い」が飛び込んできた。


 それは、「味噌」、「醤油」の香りだった。

 

 二千年くらい日本人の遺伝子に刷り込まれ続けた、根源的、プリミティブな匂い。その刺激を受けた瞬間、俺の食欲が掻き立てられた。


 気が付くと、俺は階段を降りていた。そのまま脱衣所に向かい、そこでパジャマを洗濯篭に突っ込んでから、再び廊下を走って――一階、北側にある台所に突入した。


 そこに、割烹着姿の女神(悪魔)が立っていた。


 悪魔は、窓が設置された北側の方を向いていた。その為、俺の方からは彼女の背中しか見えなかった。それでも、俺は彼女が台所に立つ意味を理解していた。


 ユラが料理をしている。


 ユラの前に設置された流し台、料理台、二個並んだ七輪は、現在進行形でフル活用されていた。

 しかし、肝心のユラの方はと言うと、立っているだけだった。


 こいつ、動いていないぞ?


 ユラは全くの不動。しかし、料理台に置かれた俎板上では、包丁が軽快なリズムを刻みながら菜っ葉を刻んでいた。

 コンロ代わりに置かれた七輪は、煙を立てずに「鯖」と思しき魚を丁寧に焙っていた。他方の七輪も、味噌汁が入っていると思しき鍋を煮立たせていた。

 それぞれの調理器具が、まるで意思が有るかのように、勝手に調理していた。


 まるで、手品――いや、魔法なのか。


 俺は「台所の奇跡」に見惚れていた。そこに、天上の美声が響き渡った。


「おはよう、玲君」


 ユラは一通りの作業を終えたようで、俺に向かって声を掛けてきた。その言動を目の当たりにして、俺は慌てて、


「お、おはよう、ユラ」


 どもりながらも挨拶し返した。すると、ユラはニッコリ向日葵のような笑みを浮かべた。


「運んでくれる?」

「分かった」


 俺はユラが作った(?)料理群を、愛洲家の食堂、「居間」へと運んだ。


 愛洲家の居間。そこは、嘗ての愛洲家団らんの場だった。その記憶を想起する度、俺の胸に寂しさが募った。


 少し前まで、「五人分」の料理を運んでいたのに。


 今は二人分だけ。俺は込み上げる涙を堪えながら、居間中央に置かれた長卓の上に料理を並べた。


 今日の献立は、「焼き魚定食」か。


 一見、普通。しかし、中身(味)は有名料亭のそれを遥かに凌いでいる。その味を想起するだけで、俺の口の中かが涎で溢れた。


 早く、早く食べたい。


 俺の胃袋は、完全にユラに掴まれていた。料理を並べている間、摘まみ食いしたい衝動に駆られて止まなかった。

 しかし、そこは勇者候補筆頭(自称)。俺は暴君と化した食欲を宥めながら、炊き立てご飯の詰まった炊飯ジャーと、味噌汁を並々湛えた鍋を運んだ。


「ふぅ」


 食事の料理を終えた途端、俺の口から「お疲れ気味な息」が漏れた。そのタイミングで、居間に割烹着姿の悪魔が入ってきた。


 ユラは直ぐ様炊飯ジャーの前に陣取って、それぞれの茶碗に御飯を盛り付けた。それが終わると、今度は木製の椀に味噌汁を注いだ。

 盛り付け終わった椀は、俺が受け取って、それぞれの席に並べた。

 それぞれの役割を果たして、朝食の準備は完了した。その事実を直感するや否や、俺達は互いの席に正座しだ。


「「頂きます」」


 俺達は異口同音に「食前の挨拶」をした。


 その直後、俺は食欲の権化と化した。


 俺は最初の獲物として、「鯖」を選んだ。俺の箸先が卓上を走り、焼けた鯖の薄皮にピシリッと突き刺さった。その瞬間、中から湯気がモワンと湧いた。


 何て、美味しそうなんだ。


 俺は食欲に駆られるまま、更に奥へと箸を埋めた。すると、程良く焼けた柔らかな鯖の身に、吸い込まれるように箸先が埋まっていった。


 一体、どこまで箸が通っていくのか?


 俺は鯖の身の柔らかさに興味を覚えた。しかし、今は好奇心を満たすより、食欲を満たしたかった。

 俺は箸を程々に埋めた後、鯖の身をほじり、それを口に入れた。

 その瞬間、俺の口内は「磯の滋味」に染まった。それと同時に、俺の遺伝子に刻み込まれた四十六億年の記憶が蘇った。


 ああ、そうだった。俺達は「海から生まれた生命」だった。


 生命の始祖から、或いは始原からのプリミティブな感動が、俺の心を激しく揺さぶった。その情動に、俺の体は完全に支配された。


 もう、止まらない。止まりたくない。


 俺は食欲の赴くまま箸を奔らせて、目の前に有った料理を全て平らげた。ご飯や味噌汁などは、それぞれを湛えた容器が空になるまでお代わりもした。


 気が付くと、俺の口に入りそうなものは食器だけになっていた。その無情な事実を直感したところで、俺は断腸の想いで箸を置いた。


「「ご馳走様でした」」


 俺が食後の挨拶を告げると、ユラの声と重なった。

 ユラは既に食事を終えていて、俺が食べ終わるのを待っていたようだ。その気遣いに、深い感謝の念を覚えた。その想いが俺の口を衝いた。


「片付けは、俺が――」


 俺はせめてもの恩返しに、食器の片付けを申し出た。ところが、


「それは私がする。それより――」


 ユラは却下した。その上で、居間の壁に掛けられた時計を指し示した。


 一体、時計が何だというのだ?


 俺は首を傾げながら、ユラの指示に従って時計を見た。その瞬間、


「げっ!?」


 情けない声が口を衝いて出た。

 時計の針は、俺の普段の登校時間を少し過ぎていた。それに気付くや否や、俺は、


「ごめん」


 ユラに謝罪した。すると、


「気にしないで」


 ユラは笑って許してくれた。その気遣いに、俺は救われた。彼女のことを女神か天使のように錯覚した。

 しかし、ユラは飽くまで悪魔だった。


「この借りは、今日の特訓で返してくれれば良いから」


 笑うユラの目に、殺気をはらんだ暗い炎が灯っていた。その視線に晒されて、俺の背筋が凍った。しかし、俺の中には恐怖に負けない強い想いが有った。


 今日こそ、俺が勝つ。


 ユラの態度や言動は、俺の心底に燻ぶる「闘志」、或いは「反骨心」という名の炎にガソリンをぶちまけていた。


「分かった」

 

 俺はユラを睨み返しながら頷いた。他に言いたいことも有ったが、それは堪えた。


 俺は直ぐ様踵を返して、スポーツバッグを担いで玄関へと走った。その瞬間から、俺の脳内では「ドラゴン攻略法」の議論が始まっていた。


 第十一話に続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る