第九話 淫魔

 西暦二千六十九年、春。

 日本の沖ノ鳥島近海に在る第七番目の大陸、「魔界」は、オーストラリア大陸と同じく、それ自体が一個の巨大な国だった。

 その政治体系は魔王の中央集権制であり、彼の意思の許に国が成り立っている。その為、各地方に置かれた地方領主は、その殆どが「名前だけ」の存在だった。


 ユラも、名前だけ領主の一人だった。


 ユラが担当しているのは「色欲地獄(アスモダイ)」という東部地方領だ。「名前だけ」の地方領主なので、彼女がいなくとも、その地方の運営に何ら支障は無かった。

 そもそも、地方領の住人が悪魔の眷属。悪魔達に言われたこと、魔王に言われたことに唯々諾々と従って、機械の部品のように毎日を過ごしている。何か支障が有ろうとも、文句の声は上がってこなかった。

 そんなハリボテのような地方都市の中心で、俺は茫洋と空を眺めていた。


 もう直ぐ夜になる。


 空は茜色に染まっていた。それを照らす太陽は、西の彼方へ沈もうとしている。このまま屋外に留まっていたならば、暗闇の中で過ごすことになる。


 しかし、現況は「城の中」。夜ともなれば、城に勤める魔物達が篝火を用意して、それを焚いて辺りを照らしてくれる。


 あれは――綺麗だったなあ。


 闇と炎のコラボレーション。その幻想的な光景は、俺の脳と心に深く刻み込まれている。それを想起すると、もう一度見てみたい気持ちも沸く。

 しかし、今日に限って言えば、夜に成ろうと篝火が焚かれることは無い。


 俺は視線を下げて、地表の様子を確認した。そこは、少し前までは「城の中庭」だった。それなのに、今は「廃墟」と化していた。


 何なの? これ。


 白浜と錯覚する広大な日本庭園は、焦げ付いた鍋底のように、その全てが炭化していた。

 山と錯覚するほど荘厳な天守閣は、石垣部分を残して焼失していた。嘗ての景勝の地が、今は見る影もない。

 その焼き尽くされた廃墟に、俺とユラ、それと「黒い山」がそびえ立っていた。


 黒い山は、巨大な魔物だった。


 全身を「黒い鱗」に覆われた、蜥蜴のような外観をしていた。しかし、普通の蜥蜴ではない。そいつの背中には、巨躯に見合った「蝙蝠の羽」が生えていた。

 その威容を視認した瞬間、俺の脳内に相手の正体、その種族名が閃いた。


 これが、「ドラゴン」って奴か。


 ユラ曰く、「私が呼び出せる魔物の中では『最強』」なのだとか。しかし、その戦闘力は魔物どころか、生物の領域を超えていた。


 どーすんの? これ。


 ユラが呼び出したドラゴンによって、色欲地獄城は焼失した。その甚大な被害の中に、「俺の鎧」も含まれていた。


 俺は、今日もユラに敗北した。何がどうなって「こう」なったのか? 俺は焼け野原と化した色欲地獄城を見渡しながら、当時の記憶を想起していた。


 今日、俺はとても調子が良かった。

 俺はユラが呼び出す魔物、その全てを一刀の下に斬り捨てた。それは、俺にとってとても気持ちの良い出来事だった。

 しかし、ユラにとっては面白くないことこの上なかったようだ。彼女は苛立ち交じりの声を上げて、


「こうなったら、『最強』を出すから」


 最強の魔物、ドラゴンを召喚した。


 ドラゴンは、顕現するなり、上空に舞い上がった。

 完全に打刀の間合いから外れていた。如何に妖刀の切れ味が鋭かろうと、届かなければ意味はない。その弱点を、ドラゴン――ユラは見抜いていた。


 ドラゴンは滞空したまま地表に向かって口を開けた。その奥から「燃え盛る炎」が飛び出した。


「!!?」


 ナイアガラの滝を彷彿とする、膨大な炎の奔流。その直下に、俺の鎧がいた。

 避けようは無かった。防ぎようも無かった。鎧は一瞬で炎に飲み込まれた。それを直感した瞬間、俺も炎に飲まれ――掛けた。

 しかし、俺は無事だった。


 俺の周囲には、ユラによって「目に見えない防護壁(バリア)」が張り巡らされていた。

 俺は熱い思いをしただけで済んだ。

 しかし、ユラの庇護は、当然ながら俺の鎧に及んではいなかった。


 鎧が炎に飲まれた瞬間、今まで鎧と繋がっていた感覚がフツリと途切れた。その現象の意味を、俺は経験上熟知していた。


 鎧は――死んだのか。俺は――負けたのか。


 今日の俺は調子が良かった。悪魔に「ドラゴン」という切り札を切らせたことは、俺の成長の証でもあった。現時点に於いて、俺は誰よりも勇者に近付いている。そう思った。

 しかし、自分の成長を喜ぶ気には、全くなれなかった。


「今日も私の勝ちだね」


 ユラは、俺に近付きながら、自慢げに「ふん」と鼻を鳴らした。その態度を見て、俺はジト目で彼女を睨み付けた。


 悔しいなあ。


 今日の俺は調子が良い。もしかしたら、今日の内に再戦を望めばドラゴンを倒せるかもしれない。そう思った。それを実行したかった。

 しかし、できなかった。その理由が、ユラの口から飛び出した。


「玲君」

「うん」

「もう、『魔力は尽きた』よね?」

「…………うん」


 俺の脳内を占拠していた魔力は、全く気配を覚えなくなっていた。それを直感していた為、ユラの言葉に頷くしかできなかった。


 これが悪魔だったなら、体内で魔力を生成できた。しかし、俺――今の地球人に、その機能は無い。だから、今は諦めるしかなかった。

 しかし、諦めたのは「今日」だけだ。


 次は――ドラゴンを倒す。


 俺は再起を期していた。その為に、成すべきことが一つ有った。それを実行する為に、俺は――


「じゃ、玲君の家に帰ろっか」

「うん」


 ユラが伸ばした左手を、右手で掴んだ。その瞬間、視界がグルリと回転した。

 グルグルグルグル――絵の具をかき混ぜているように、周りの景色が渦を巻いて溶け込んでいく。それは次第に収まって、俺の視界に「別の像」を映した。

 それは、俺にとっては見慣れた光景だった。


 気が付くと、俺とユラは「愛洲家の二階の廊下」に立っていた。

 

 帰ってきた。


 我が家への帰還。後は風呂に入って、ご飯を食べて、寝る。それだけだ。それだけのことなのに、俺は不安を覚えていた。その原因が、俺の直ぐ隣に立っていた。


 悪魔、いや、「淫魔」ユラ。


 今夜、俺は淫魔の誘惑に耐えねばならなかった。


 夜、時間は午後十一時くらいだろうか。飯も食った。風呂にも入った。宿題も済ませた。歯も磨いた。パジャマも着た。布団も敷いた。後は「寝る」。それだけだ。そこまで準備版段整えたところで、俺の部屋のドアがガチャリと開いた。


「玲君」


 ドアの方を見ると、白い襦袢姿の悪魔がいた。


「ユラ」


 ユラの格好を見る度、「時代錯誤な」と違和感を覚える。しかし、色欲地獄がそうであるように、それが彼女の「趣味」なのだ。


 ユラは「和風」に傾倒、心酔していた。色欲地獄の領主に成ったのも、それが理由だったようだ。

 以前、ユラの趣味嗜好の理由を尋ねたことが有った。その際、彼女は――


「好きに理由は要らないよね?」


 答えをはぐらかした。いや、本当に理由が無いのかもしれない。それに、ユラの趣味嗜好は、俺にとっては多分、幸運だった。


 お陰で、俺はユラに見染められたのだから。


 ユラのお陰で、魔法の才能を開花できた。「ムラマサ」という最強の武器も手に入れた。それは、俺にとっても、全人類にとっても幸運だった。


 しかし、全ての幸運を鑑みて尚、彼女との出会いを「不幸」と思いたくなる事態が、今から起ころうとしていた。


「それじゃ――」


 俺の部屋にやってきたユラは、天使のようなあどけない笑みを浮かべながら俺の方へと近付いてきた。


「!」


 俺は息を飲みながらユラの接近を待った。彼女は互いの手が届く距離まで近付いてから、俺に向かって来訪理由を告げた。


「寝よっか」


 寝る。即ち「同衾」。その行為の意味を考えると、俺の心臓が「恐怖」で跳ねた。


 ユラは「淫魔」だからなあ。


 一般的な淫魔の特性を鑑みると、俺の脳内に「干からびた俺の遺体」が閃いた。

 しかし、そんなことにはならない。そもそも、俺体の同衾に性的な意図は無いのだ。


 俺達が一緒に寝るのは、飽くまで「魔力補充」の為だった。その方法は、悪魔毎に異なっているらしい。

 淫魔の魔力補充方法は「二種類」有った。


 一つは、誰もが想起するであろう「性行為」。

 もう一つは「夢の共有」。俺達は、後者を採用していた。


 夢と淫魔。一見、何のかかわりも無いように思える。しかし、淫魔には「それ」を示唆する別称が有った。


 その名もズバリ「夢魔」。淫魔は「夢を操る能力」を持つ悪魔だった。


 ユラは、俺と夢を共有し、それを媒介することで魔力を供給できた。しかし、それを実行する為には「二つ」の条件が有った。


 一つは、互いに夢を見ていること。

 もう一つは、同じ布団で寝ていること。


 何をどうしたところで、俺はユラと同衾しなければならない運命にあった。その事実を思うと、溜息吐きたくなるほどの憂うつさに襲われた。

 小学五年生の頃ならいざ知らず、今は互いに中学二年生。俺も精通している。


 我慢――しないとだよな。


 正直、今まで耐えて来られてきたのは奇跡だろう。「絶対に、夢精した」と思ったことは、一度や二度ではない。

 しかし、信じ難いことだが、俺が下着を汚したことは、今まで一度も無かった。

 何故なのか? 一度勇気を出して、ユラに尋ねたことが有った。すると、彼女は意地悪そうな笑みを浮かべて――


「んふふっ、内緒」


 答えをはぐらかした。俺の不調(?)は、今も謎のままだ。そんな不安を抱えながら、今日も同衾する。

 今の俺にとって、ユラとの同衾は「ご褒美」ではなく「拷問」だった。


 早く寝ないと、早く寝ないと、早く寝ないと――。


 俺は就寝に執心していた。しかし、ユラがそれを許さなかった。

 ユラは眠りながら、俺の胸に顔を埋めて頬擦りし出した。


「!」


 俺は「全身の血流が沸騰した」と錯覚するほど興奮した。性的な部分も、痛いくらいに反応した

 しかし、それでも、俺は耐えた。

 

 相手は悪魔。相手は淫魔。相手はユラあああああああああああああっ!!!

 

 俺は猛り狂う本能を抑え込もうと、必死に自戒した。そんな俺の気遣いを、ユラは全力で踏みにじった。


「んふふっ」


 ユラは嬉しそうな笑い声を漏らしながら、俺に思い切り抱き着いてきた。更に、自身の全身を俺の体に擦り付けた。


「!!!」


 ユラの傍若無人な誘惑に晒されて、俺は無性に腹が立った。


 ユラあああああああああっ、お、ま、え、と、いう奴はあああああああああっ!!


 俺は心中でユラを散々詰った。詰りまくった。俺の思考回路は、怒りと興奮で短絡しまくっていた。その行為が、俺の脳に過剰な負荷を与えた。


 俺の語彙が尽きた頃、俺は疲れ果て、それで漸く夢の世界に旅立てたのだった。


 第十話に続く。

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