第7話
温かなベッドで目を覚まして、昨日のことを思い出した。
清潔で静かなこの部屋からでは、悪い夢だったかのように思えてしまう。
−夢だったら、良かったのに。
あれは確かに、現実だった。あれは確かに、この世界の日常の一部だった。
私はリタが来る前に着替えを済ませ、裏庭に出た。
まだ薄暗い。シュナイツも、まだ来ていなかった。
木剣を手に取って、振った。
不意に赤色の何かが飛び散ったような気がした。手が、べったりとして気持ち悪い。
吐き気が込み上げてきた。
頭の奥が、すっと冷えていく。
―もし、今持っているのが偽物の、木製の物じゃなかったら?
そうじゃなくなる日が、いつか来るのかもしれない。
考えないようにした。考えないようにして、剣を振るう。
手が震えた。その分、それ以上に力を入れて、柄を握りしめる。
木剣が風を切り裂く。汗が跳ねる。息が上がって、頭の中が白くなっていく。
恐怖も、感傷も、捨ててしまいたかった。怖がったところで、きっとこの世界は何も変わってくれない。
―私が生きる世界はもう、ここなんだ。だから。
時間が欲しかった。いつも通りの私に戻るための時間が。
時間が止まればいいのに。そう思ったし、半分本気で願った。それでも、太陽が登る速度は少しも遅くなってはくれなかった。
太陽が半分ほど顔を出した頃、裏庭の扉が開いた。
私は、心に巣食うごちゃごちゃした感情を纏めて、奥へと押し込む。
「おはよう、イヴ。今日は早いな」
私はシュナイツに、いつも通りに挨拶を返す。いつもより早い理由も、たまたまだと誤魔化して。
一度そうして仕舞えば、自分でも信じられないほどにいつも通りの日常が過ぎていく。私の心なんか関係なく、月日は流れていく。私はただ、過ぎ行くその流れに身を任せた。
数か月で、秋が来た。気温がぐっと低くなる。稽古の時間に、手袋をつけるようになった。あれから何度かお忍びで出かけたけれど、あの日みたいなことは一度もなかった。
冬が来た。数センチほど積もった新雪を踏みしめ、剣を振るう。風を切る音は、普段より少し鋭く聞こえた。雪がひどくなってからは、屋内の修練場を使うようになった。
いつしか冬が過ぎ、春になった。私は初めて、ティグリスの街を離れていた。
暖かい朝の気配を感じて目を覚ました。
体を起こして、見慣れない内装の部屋に一瞬困惑したものの、すぐにここがどこか思い出す。
ここは、ギルウィスト帝国の帝都ルナーリアの、ハーレン辺境伯家の別邸。そして、イヴ・ハーレンという名の貴族の娘の部屋だ。
5日後の建国祭の日に王城で行われるパーティーにシュナイツが出席するため、私はそれに着いてきていた。
初めての馬車旅だったし、疲れて、昨日はついて早々に寝てしまったのだろう。記憶がいまいち薄ぼんやりとしている。
時計を見ると、いつも起きる時間を過ぎていた。リタも気を使ってくれたみたいだ。
私は、まだベッドの中にうずくまっていたい気持ちを何とか制してベッドから起き上がり、そばの机に置いてあった服に着替えた。
裏口から外に出ると、思ったより寒くはなかった。ルナーリアはティグリスよりも温かい気候なのかもしれない。
私はいつも通り素振りを始める。風を切る心地よい音を聞きながら、私はひたすらに剣を振るった。
「300っと」
ノルマの回数が終わったタイミングを見計らって裏口のドアが開き、タオルを持ったバウルが出てきた。
「おはようございます。お嬢様」
「おはようバウル。義父様はどちらへ?」
バウルから受け取ったタオルで汗を拭きながら尋ねる。
「帝国軍の公務で兵舎に向かいました」
昨日着いたばかりなのに、もう公務で忙しいのか。行きの馬車でも愚痴ってたけど、やはり一緒に帝都の観光は難しそうだ。
「今日の私の予定は?」
「特に予定はございません。旦那様から、疲れをしっかり取るようにと」
「そう...じゃあ午後から、帝都の観光でもしてきます。護衛を準備しておいてください」
「わかりました、お嬢様」
バウルに別邸の中をルームツアーをされつつ、私は浴室に向かった。
午前中は、読書や屋敷の中を散歩したりしていたらすぐに過ぎていった。別邸は、広さはティグリスの屋敷ほどではないものの、内装や外観は同じくらいお金がかかってそうだということが分かった。
軽く昼食を食べた後、私は目立たない格好に変装して、同じく変装した護衛を連れ、街へと出かけた。
建国祭の日はまだ5日後だというのに、王都の街はあらやるところに建国祭の飾りがつけられ、活気付いていた。道はティグリスよりも広いのに、行き交う人や馬車の圧倒的な多さで、その広さを感じない。
商店街に入ると、道には所狭しと屋台が並べられ、祭り名物の焼き菓子や、いろんなアクセサリーが売られていた。
ティグリスでも売っていたような商品もあったが、見たことさえないようなものも多くて、何を買おうか迷ってしまう。お小遣いは有限だ。…実際には、シュナイツに頼めばいくらでも買ってくれそうな気はするが、自主的に有限にすることにしていた。
今日のお供にするスイーツは、十分に吟味する必要がある。
チュロスみたいな焼き菓子は一旦パスすることにして、次の屋台に目線を移す。
ふと、路地裏に目がいって、奥で男が数人、何かを囲んでいるのが見えた。
「何をしてるんだろう」最初はそれくらいの興味しかなかった。けれど、一瞬男たちの隙間から囲んでいるものが見えた瞬間、私はそこで何が起きているのかを反射的に理解した。
辺りを見渡しても、私以外、誰も気づいていない。
−どうしよう。
しようと思えば、見なかったふりだってできる。いや、実際ここを通り過ぎたうちの何人かはそうしているかもしれない。
けれどこのままここを去っても、今見えた光景は振り払えそうになかった。
何かした。その口実が欲しかった私は、せめて衛兵に通報しようと頭の中で地図を思い起こす。
ふと、男達の隙間から、さっきよりはっきり、その少女の姿が見えた。年齢は私と同じくらいだろうか。背丈は最後に見た前世の蓮と、ちょうど同じくらい。
蓮の顔が浮かんでしまったら、まるで、崖を踏み外したみたいだった。抗いようなんてなかった。
−馬鹿だ。
自分のしようとしてることに、自分でもそう思った。
「お嬢様?!」
私は、護衛の驚く声を振り切って私は駆け出していた。
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