11.負けられない戦い

――千尋ちひろが、変わった気がする。


 快龍かいたつとマンツーマンでブロックの練習をしている千尋を、紗良さらはスパイクの壁打ちをしながら眺めていた。

 ネットを前にして、両手を顔の前で構える千尋。今までよりも腰がしっかりと落ちていて、安定感がある。そして何より、表情や佇まいが違う。ここ数日のポニーテールはいつもよりも気合が入った結い方に見える。


 快龍くんと一緒に帰った時、何かあったのかな。

 不穏な想像が紗良の頭をよぎる。

 千尋が怪我をしたあの日。走り去るトーカを追いかけたものの結局説得できず、荷物を取りに学校に戻ろうとしたら、校門付近で並んで歩く二人を見つけてしまったのだ。


 なんとなく、千尋は快龍と相性がいいような気がしていた。

 二人とも頭がよく、努力家で、少しだけ「孤高」な雰囲気がある。

 紗良には言えずとも、千尋にならわかる快龍の苦悩もあるのかもしれない。

 そう思うと、二人の背中に声をかけることができなかった。

 

――あ。

 変な力が入ったのか、手元が狂った。

 壁に打ちつけていたボールが、大きく跳ね返り、紗良の頭上を越えていく。

 バウンドしながら転がっていくボールを、追いかける。

 ボールは入口の方に向かっていき、ちょうどそこに現れた人影がヒョイとそれを持ち上げた。


「ありがとう。来てくれてよかった」

 嫌な想像を押し込め、いつも通り、明るい笑顔をつくった。


「……、マジで熱心だなー」


 ボールを両手で抱えたトーカが、快龍と千尋の方を見つめていた。


「トーカも今日はやる気やん」


 彼女はグレーのトレーナーに黒いトレパンで、トレードマークのニット帽を外してきていた。おでこの辺りに黄色いヘアバンドをしていたが、ヨガのインストラクターみたいだった。いつもは胸の辺りまで伸びている金色の髪は、頭のてっぺんでお団子になっている。

 

「千尋にあそこまで言われたら、受けてたつしかないじゃん」


 そう言って体育館に入ってくる彼女の後ろには、ゆきの姿もあった。

 アッシュグレーのサラサラした髪が、歩くたびに揺れている。


「雪も参戦するんだね」


「セッターがいないと、勝負ができないでしょう」


 雪が感情のこもらない声で言った。

 おそらく、トーカのお願いだから聞き受けたのだろう。

 雪とトーカは、小学校からのチームメイトらしい。


 二人が体育館に入ると、快龍と千尋も彼女たちに気づいたみたいだ。

 一瞬、千尋とトーカの視線が交わる。

 張り詰めた緊張感が、ピリピリと紗良の肌を刺した。


***

〈パアァン!〉

〈パアンッ!〉

 ボールが床を叩く小気味良い音が連続して鳴っている。

 準備運動を終えたトーカが、スパイク練習を始めていた。

 トーカは背も高く肉付きもいい方だ。体格を生かした力強いスパイクが、彼女の武器だった。


「ねぇ、千尋大丈夫かな」


 コートの外で、紗良は隣に立つ快龍に尋ねた。当の千尋は、壁際でブロックの構えを作りながら、トーカの打つ姿をじっと観察している。


「心配してくれてるのか。さすがキャプテンだな」


 そう言った快龍もトーカのスパイクを目で追っていた。

 さすがキャプテン。

 それが狙った発言ではなく純粋な本音だと長年の付き合いでわかっているからこそ、頬が緩んでしまう。


「まぁ、千尋の努力の成果を楽しみにしよう」


「とはいえ、私たち筋トレはまだ五日間くらいしかやってないけどね」


「筋トレだけが努力じゃないさ」


「あれ、珍しいこと言うやん」


 そうか? と快龍くんは首を傾げているけど。

 千尋だけでなく、快龍くんも変わった気がする。

 気のせいだといいなと、紗良はそのとぼけた横顔から目を逸らした。


「練習、終わったみたいだな」

 

 トーカが千尋を呼んで、いよいよ対決が始まるようだ。

 口を真一文字に結んだ千尋が、ネットの前に歩いて行った。


***

 勝負は10球で決まる。


 トーカが雪にトスをあげてもらい、レフト側からスパイクを打つ。

 それを千尋がブロックに入って、3本のブロックポイントが取れたら千尋の勝ち。

 観戦している紗良にしてみても、どちらが勝つのか予想がつかなかった。


「いつでも大丈夫です」


 千尋がネット中央よりもやや右寄りの位置で、ブロックの構えを作った。

 先ほどのブロック練習を見ていると、急激に上達しているのがわかる。

 快龍の教え方が上手いのだ。

 これなら、もしかして3本くらいは止められるかもしれない。


 千尋の様子を確認したトーカが頷き、雪にボールを渡す。

 快龍は紗良の隣で腕を組んで、彼女たちの戦いを見守っている。

 いよいよ、始まる。

 紗良は息を呑んだ。

 皆の視線が集まる、1球目。

 セッターの雪がボールを投げ、トーカがそれをレシーブで雪に返す。

 雪は一歩だけ動いて、しなやかに動く両手でボールを捉え――。


「え?」


 気づいた時には、すでにトーカはスパイクを打ち終わっていた。

 誰もいないコートに、強烈な打球が叩きつけられる。


「……、やられたな」

 

 隣で快龍が呟いた。

 千尋は、ブロックに跳ぶことすらできなかった。

 小さく雪とハイタッチをするトーカ。

 紗良は我慢できずに、ネットまで駆け出していた。


「ちょっとトーカ! 平行はずるいやろ!」


 練習の時点でトーカは、一般的なオープントスと呼ばれる、セッターがボールを高くゆみなりに上げて、余裕を持ってスパイクに入る打ち方をしていた。

 一方、今トーカが打ったのは【平行】と呼ばれるトスで、ネットに対して平行に素早くトスが上がる。オープントスよりもタイミングがかなり早いトス回しだった。


「いや、全然ずるくないし」


「千尋はまだ初心者だよ?」


「でもさ、それが紗良たちがやりたい本気の部活ってもんなんでしょ?」


「……、確かにそうだけど」


 そう言われると、何も言い返せなかった。

 勝ちと負けが、はっきりとする世界。

――この勝負に千尋が負けたら、快龍くんとは一緒にバレーできない。

 せっかく快龍くんがまたバレーを楽しんでくれているのに。

 昔みたいに、笑ってくれているのに。

 

「紗良、私なら大丈夫です」


 声がした方を振り向く。

 思わずハッとした。

 あの千尋が手の甲で汗をぬぐい、口からペロリと舌を出していた。

 心から、勝負を楽しんでいる。ただし、その目は全く笑っていない。

 彼女はじっとネットの上を見ている。黒目が、細かく動いている。

 シミュレーションしてるんだと、気づいた。

 彼女の脳内で、トーカのスパイクが分析されている。


 ああ。負けたら、なんて考えるのはやめよう。

 隣に立つ快龍も、腕組みしたまま微動だにしていなかった。


「……、信じてるよ。天才」


「はい」


 耳に入っているのかいないのか。謙遜もせずに千尋が返事をした。


「じゃあ2球目行くから。紗良は下がってて」


 トーカが雪にボールを渡した。

 先ほどと同じようにトーカがレシーブをする。


――っ!


 少しレシーブが乱れた。

 最近は練習に来ていなかったから、まだ感覚が戻っていないんだ。

 千尋はネットに張り付き、ボールとトーカの両方を視界に入れている。

 雪が2歩ほど素早く動いて、ボールを手でそっと押し出す。


〈パチッ!〉


 トーカが放ったスパイクは千尋の指先を掠って、威力は半減したがそのままコートに落ちていった。


「ああっ、惜しい!!」


 紗良は思わず叫んでしまった。

 ブロックとしては成功だが、相手コートに落ちていないため今回の勝負では千尋のポイントにならない。

 指先を見つめて悔しそうにする千尋。

 トーカは雪に「ナイストス!」と親指を立てる。


 それでも、千尋は確実に反応していた。

 彼女の成長速度には、紗良も脱帽させられる。

 

 しかし、別に千尋も天性の才能があるとか、そういう感じはしない。

 彼女も1回目はよく鈍臭い失敗をする。

 だがおそらく、一つの失敗から学ぶ量が常人の比ではないくらいに多いのだ。

 どこで不協和音が鳴ったのかを判断し、調整する力。

 千尋の実は完璧主義な性格も、その修正力の手助けをしているのだろう。


〈パァァン!!!!〉


 だから、3回目にはもう、タイミングを合わせたりできるんだ。


「千尋!! やった!!」


 3球目。千尋のブロックに弾かれたボールは、柔らかい曲線を描いてトーカ側のコートの端に落ちた。念願の、千尋のブロックポイントだ。悔しそうに顔の中心に皺を寄せるトーカの前で、千尋が振り返って紗良と快龍の方を見た。


「今の、よかったぞ」


 快龍は落ち着いた様子で千尋を褒めた。紗良は大袈裟に跳んで喜んでしまったことを少しだけ恥ずかしく思った。千尋本人が、一番冷静だったからだ。


「今のは、勢いに押されてしまいました。本当は真下に落としたいのですが」


 千尋はそう言って手の形を確認していた。

 こんな時でも驕らない。千尋らしくて、思わず微笑んでしまう。

 そして勝負は、さらに白熱したものになった。


***

 4球目、オープントス。トーカがパワーで捩じ伏せる――×。

 5球目、平行。先ほどのオープンでタイミングが少しずれる――×。

 6球目、平行。トスが少し乱れるが、トーカがブロックアウトをとる――×。

 7球目、オープントス。千尋がタイミングを合わせ、ブロックポイント――○。

 8球目、前セミ。千尋はジャンプの位置が合わない――×。

 

 8球目まで終わり、千尋のブロックポイントは2本。

 トーカも千尋も、お互い集中力が高まっている。

 その証拠に、8球目にトーカが仕掛けて来た。


「ここでセミ入れてくるかぁ」


 紗良は唇の端を噛んだ。

 セミも平行に似て低くて早めのトスだが、平行やオープンレフトとはジャンプの位置が少し違う。平行がコートの端、アンテナ付近でスパイクを打つのに対して、前セミはコートのやや中央寄りの場所。先ほどのプレーではトーカの思惑通り千尋の跳ぶ位置がずれ、ブロックが意味をなしていなかった。


 そして今、千尋の脳内には三種類の異なるタイミングのトスがちらつくことになる。スパイカーの視線や助走などによってある程度は判断できるが、初心者の千尋にはまだ難しいだろう。ここでタイミングを乱されるのは、かなりの痛手だった。


「まぁ、大丈夫だろ」


 だが、快龍は暢気だった。千尋がブロックを決めた3球目から空気椅子を始めていて、今なお微動だにしていない。地味に凄いけど、今やらなくてもいいと思う。


「でも今のセミでタイミングが」


「千尋なら大丈夫だ。あいつは――」


「本当に? そうなのかな」


 確信を持っている快龍の言葉にも、紗良は半信半疑で千尋の様子を伺った。


 千尋は先ほどのセミを受けて、一人でタイミングを取るように足を動かしていた。右足を一歩踏み出し、左・右と素早く移動させ、右足で踏ん張りをきかせながら踏み切る。形は悪くない。元々千尋は少しだけバレエもやっていたらしく、空中での姿勢は綺麗だった。

 あとはタイミングだ。


――がんばれ、千尋。


 紗良が両手を合わせて祈ったとき、雪が9球目のボールをトーカに向かって投げた。

ここで決めたら、千尋の勝ちなのに。

 平行、セミ、オープン。

 紗良にはなんとなく次の手が読めていたが、千尋には多分難しい。


 雪がゆっくりとボールの下に入り、急に素早いトスをあげる。

――やっぱり、平行だ。

 トーカが一瞬で跳躍の姿勢に入り、左手を高く掲げて空中で振りかぶった。


――っ!!!


 トーカのスパイクを既に千尋が、空中で待ち構えていた。

 読んでいたのではないかというくらい、ドンピシャなタイミングだ。

 トーカも驚いたのか、腕を振り下ろす力が弱まった。


 千尋のブロックが、弱まったスパイクを捕らえる。

 弾かれたボールが、宙に浮く。

 ゆっくりと、トーカ側にボールが落ちていく。

 

――きたっ!!!


 紗良は両手を上げた。

 千尋の勝ちを確信したのだ。

 しかし。

 バレーボールは、コンマ数秒が全てを左右するスポーツだった。


「まだ落ちてないっ!!!」


 紗良の万歳が、顔の横あたりで止まる。

 トーカが、スパイクを打ったトーカが、ブロックにかかったボールを自分でレシーブしたのだ。


 彼女が拾い上げたボールは、そのまま雪の頭上に上がる。

 トーカはすかさず体勢を整えて、スパイクの助走に入った。

――プレーを続行する気だ。

 紗良の腕に鳥肌がたった。

 このまま、10球目を打つつもりなんだ。

 今までのように、一回一回プレーが切れているわけじゃない。

 つまり、流れの中で千尋はもう一度ブロックを跳ばないといけないということ。

 タイミングが取り辛くなるということ。


 雪が刺すようなトスを上げる。

 絶対にオープントスだと思っていたが、彼女のトスは早く鋭い。

 ここでまた平行か。

 平行は、スパイカーの助走がしっかり取れる状態で上げるのが定石なのに。

 強気なトスに合わせて、トーカが弓を引くように手を引き絞る。


――千尋なら大丈夫だ。あいつは、ずっと頑張ってきたんだ。


 その時、紗良の脳内で快龍の声が、千尋のステップと重なっていた。

 千尋は流れるように跳躍し、ネットの上にしなやかに手を伸ばしはじめる。


――苦手になったピアノを、それでもずっと、ずっとだ。だから……。


 その瞬間は、半信半疑だった。

 トーカの目の前。千尋の両手が、ボールを包むように伸びていく。

 寸分の狂いもない、完璧な、タイミング。


――身体の中の正確なメトロノームが、助走のリズムを教えてくれるんだよ。


〈バシンッッッ!!!〉


 トーカの真下に、ブロックに弾かれたボールが叩きつけられた。

 一瞬の静寂。

 誰もが、激しい音を立てた地面をじっと見つめていた。

 ぼん、ぼん、と弾んで、転がっていくボール。

 そして、千尋が、ゆっくりと振り返る。

 右手の拳を握り締め、快龍と紗良に見せつけるようにグーサインをつくった。


「やりました!!!!!」


 満面の笑みだった。

 隣で快龍も大きく頷いている。


「千尋……、千尋っ!!!」


 急激に目頭が熱くなっていた。

 千尋が頑張ってきたことは、無駄じゃなかった。男の人が苦手なりに精一杯、快龍くんからブロックを教えてもらったことも、全部、全部無駄じゃなかった。

 そう思うと、喉にも熱が込み上げてきて。

 しゃっくりばかりで、上手く言葉が出てこない。


「やっぱり、こうやって努力が繋がる瞬間は、バレーやっててよかったって思うよな」

 隣で、快龍くんがぼそっと呟く。

 その通りだねって見つめると、彼の瞳はひたひたに潤んでいた。

 

「紗良、俺をマネージャーにしてくれてありがとう」


 ああ。だめだ。

 それは反則だよ。

 すぐそばでそんなことを言われるから。

 なんとか抑えようとしていた涙が、一気にこぼれ落ちていった。










―――――――――――――――――――

ここまで読んでいただきありがとうございます!

千尋の闘い、楽しんでいただけましたでしょうか。

明確な区切りはありませんが、一応このお話で第1章は終わり、次回からラブコメも加速する第2章となります。面白いと思っていただけましたら、★の評価、ブックマーク等いただけますと執筆の励みになります!

今後とも快龍たちのわちゃわちゃしたバレー生活を、温かい目で見守ってやっていただけると嬉しいです。

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