10.丹田が燃えている
七、八、きゅぅぅぅっ!
体育館に敷いたマットの上で、仰向けに寝そべる
「ほら! あと1回で上体起こし1セット終わりだ。頑張れ」
筋トレを始めると言ってから、土日も挟んで今日で3日目。
隣のコートでバドミントン部が部内戦に励んでいる中、女子バレー部のコートには家の布団の三倍くらいの大きさはありそうな白いマットがでろんと敷かれていた。
「ふわぁぁぁ! キツ過ぎますよこれ!」
千尋は頬をふんっと膨らませて上体を持ち上げ、胸の前でクロスした腕を膝にくっつけた。そして全ての力を出し切ったみたいにバタンとマットに倒れ込み、肺の空気を全部吐き出した。
手で顔を仰ぐ千尋の様子を、隣で体育座りの
紗良も同じ筋トレメニューだったが、千尋の半分の速さでこなしていた。
「千尋は背が高いけど、上半身だけなら私より軽いんだからさ〜。もっと頑張らないと」
「な、なんだか失礼なことを言われているような気がします! それはつ、つまり私のむ……」
そんな会話が耳に届いて、快龍は気まずさに顔を逸らした。
普段の紗良は明るいが、時々こういう京都人特有のブラックジョークを口にすることがあった。
「それに千尋、まだあと2セットあるってさ」
「え、嘘ですよね快龍さん! 嘘って言ってください!」
悲痛な声が響く。
これについてはジョークでもなんでもない。千尋の顔を見ていると嘘と言ってやりたいが、ここは心を鬼にしなければならない。
「本当だ。隣のバド部にも負けないように、頑張っていこう」
「うわぁぁ! 無理です! 身体中の筋肉の悲鳴が聞こえます!」
「そうやって筋肥大が起こっていくから、それはいい兆候だな。よし、まずはもう1セットやろう」
快龍がパンっと手を叩く。しかし、千尋は不服そうに唇を尖らせた。
「快龍さんは見てるだけじゃないですか。せめて一緒に苦しみを味わってもらわないと納得できません」
「確かに、それもそうだな」
千尋の言うことももっともだったので、快龍はマットの端の方で膝を折り曲げて仰向けになった。この程度の運動なら、古傷を痛めることもないだろう。腹筋の感触を手で確かめて、身体を持ち上げる。徐々にスピードを上げていく。
「こんなもんでいいか?」
隣で見ている千尋と紗良は、口をぽっかりと開けて
「か、風が、風が発生しています!」
快龍の早すぎる上体起こしによって生じた風圧で、二人の前髪が後ろ向きに吹き飛ばされそうになる。そして風の発生源である快龍の動きは目で追えないほどになっている。人体を逸脱したその腹筋に、紗良も言葉を失った。
「いやあ、あらためて筋トレは気持ちいいな」
「快龍さん。自信無くすので、もう、やめてください……」
「え?」
「快龍くん! バド部も急に風が吹いてびっくりしてるから!」
「え、ああ。そうか」
乱れた前髪の紗良が切実な声を出したので、快龍は上体起こしを中断し、ビュンビュンと吹いていた風が止まった。
再び訪れた凪の時間に、全員が安堵をしたのも束の間――。
「……、何してんの」
凪いだ空気を切り裂くようなその声の主は、紗良でも千尋でもなかった。
二人の顔が同じ方向に向かって動く。
入口の方からだ。
快龍もマットの上で胡座をかいて、入り口に視線を移した。
大きく開かれたドアによりかかっていたのは、黄色いカーディガンを腰に巻いた制服姿の女子。
ニット帽を被ったトーカが、そこに立っていた。
「バレーしてるかと思ったら、マットなんか出してどうしたん」
「トーカ。来てくれたのか。今は筋トレをしててだな」
快龍が大きな声で応える。しかしトーカは、細く整えられた眉を大きく歪めた。
「軽々しく名前呼びしないで。ウチはあんたを許してないんだから」
ニット帽を深く被り直し、トーカが冷たく言い放つ。
千尋も紗良も立ち上がり、彼女のもとへ駆け寄った。
「もう私のことで喧嘩するのはやめてください! 私は快龍さんに怒ったりしてませんから」と千尋がお腹を抑えながら訴える。
「トーカも一緒に筋トレしようよ!」
一方の紗良は明るく伝えていた。
「筋トレとか笑えるんだけど。ボディビルダーでも目指してんの?」
しかし、トーカは鼻で笑うばかりだった。マスカラでカールしたまつ毛が、挑戦的にパチパチと動いていた。快龍は二人の後ろから、その様子を眺めていた。
彼女は手強い。そう思った。
「でも、トーカも前は筋トレしてたじゃん」
だから紗良がそう言い放った時、トーカの表情が曇ったのが意外だった。
「昔はね。でも、今はもう四人しか居ないんだし、そんなのやってもしょうがないじゃん」
「しょうがなくないよ。こうやってちょっとずつ成長していくんだよ」
「だから、成長とかどうでもいいんだって。ウチは楽しいのが一番大事で」
「それは違います!」
紗良とトーカの会話に、珍しく千尋が割って入った。
この前は怯えたような顔をしていたのに、今日はとても血色がいい。
「いやでも、千尋もそうよね? ピアノ大変だし、息抜きできたらいいなって思って、楽しみたいなって思ってバレー部入ったんよね? なのに、そんな急にマネージャーとか、筋トレとか言われてさ」
「トーカ。私は今、楽しいですよ」
トーカの言葉を遮った千尋が白い歯を見せて笑った。
今まで見たことがないような、清々しい笑顔だった。
思わず快龍の方が胸を打たれるくらいの。
込み上げてくるものを、流石に今じゃないなと堪える。
「楽しい? こんな地味なのが? 嘘でしょ?」
「嘘ではありません。確かに大変ですけど、クセになりそうです」
「……、ああそう。千尋がそう言うなら、勝手にやってれば。ウチと雪はやらないから」
「そんなこと言わずに、戻ってきてくださいよ。トーカがいた方が、私たちも楽しいですし」
「嫌。あいつがいる限り、部活には顔出さないから」
「そうですか。……では、私と勝負してください」
「「「え?」」」
千尋のいきなりの宣言に、その場にいた三人全員が耳を疑った。
勝負? 何の勝負だ?
快龍にも、彼女の思惑がわからなかった。
「トーカのスパイクを私がブロックして、10本中3本止められたら、快龍さんがマネージャーになるのを認めてください」
千尋が堂々と言い放った。
おっとりとした彼女の目に光が宿っているように見えるのは、単に体育館の照明が反射しただけではないだろう。強気だったトーカは、千尋の気迫に押されて目を逸らしていた。
「そんな。千尋は背は高いけど、ブロックなんてできないじゃん。また怪我するかもしれないし」
「怪我しないように、快龍さんに教えてもらって練習します。だから、やるからには本気で打ち込んできてください」
「だけど……」
「トーカ、私はですね」
渋るトーカの顔を覗き込むように、千尋がぐいっと一歩前に出た。
真っ直ぐにのびた背筋が、誠意ある彼女の態度をそのまま表現していた。
「私はもっと、バレーボールが好きになれるかもしれないんです」
ああ、美しいな。
思わず千尋の背中に見惚れてしまった時。
<っっしゃあああああ!!!!!>
千尋が微笑んだのと同時に、隣にあるバド部のコートから雄叫びが聞こえた。どうやら、部内戦のうちの一試合が随分と白熱していたみたいだ。その咆哮は千尋の言葉と相まって、快龍の胸をくすぐった。
そして熱い血が騒いだのは、トーカも同じだったみたいだ。
「3日後。3日後にまた来るから。その時にはもう突き指も完全に治ってるでしょ?」
そう言い残して、トーカは踵を返して去っていった。
千尋との対決を、受け入れたということだ。
大股で歩いていく姿には、燃え盛るオレンジの炎のようなオーラが見えた。
「何、千尋。なんか頼もしくなってない?」
トーカを見送った紗良がニヤニヤと褒める。千尋は恥ずかしそうに口元を手で隠し、快龍の方を振り返った。
「筋トレの、効果かもしれませんね」
おっとりと垂れた目で千尋が快龍を見上げる。
嬉しいがしかし、千尋の主張は間違っている。
快龍としては、間違いを訂正しないわけにはいけなかった。
「いや、そんなにすぐに効果は出ないからな。筋力の向上をきちんと実感できるようになるのは、一ヶ月後からだろう」
「……、快龍さんって、ちょっとバカですよね」
一瞬きょとんとした後、千尋がふっと吹き出した。
「ちょっとじゃなくて、めっちゃバカだよ」と、紗良も笑っていた。
「……、あんまりバカって言うと、筋トレもう1セット追加するぞ」
自分の前で、二人が笑ってくれたのが嬉しかった。
俺はここにいていいと、思うことができそうだ。
まだたったの三人だけど、初めてチームを感じることができた瞬間だった。
「快龍さん! それ終わったらブロック教えてくださいね!」
千尋がマットに向かって駆けていく。
――バレーボールが好きになれる、か。
丹田のあたりがじんじんと燃えているのは、上体起こしのせいだけではないだろう。
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