9.2番目の才能

 話を始めようとしたら駅に着いてしまったので、千尋ちひろ快龍かいたつと駅前の広場のベンチに並んで腰掛けることにした。

 もう完全に夜だ。仕事を終えたサラリーマンや、学生服姿の男女が改札の方向に吸い込まれていた。


「快龍さん、お時間は大丈夫なんですか?」


 ここまで付き合ってもらって、今更ながら申し訳なさを感じた。

 隣に座る快龍との適切な距離もわからず、とりあえず一人分のスペースを開けている。


「全然問題ない。それより、どうしてピアノの練習をしたくないんだ?」


 快龍の声は、頼りがいのある感じがする。

 今まで感じたことのない、男の子の持つ安心感のようなものを勝手に感じていた。


「昔は、ピアノが大好きだったんです」


 彼の持つ安心感にかまけて、甘くて苦い記憶を引っ張り出してくる。

 自分のことなのに、そんな時代もあったことが嘘みたいだ。

 吐く息は一瞬だけ白く光って、すぐに暗闇の中に溶けて消えていく。

 スカートの上に置かれた両手は、綺麗に揃えられている。


「それが今となっては、突き指をしたいと思うほど苦痛になっていた、ということか」


 駅の構内に入っていく人の出入りを眺めながら、快龍が言った。

 千尋は小さく「はい」と頷いて、話を続けた。


「小学校に入る前のことです。その時の私は、年頃の女の子らしく、ピアノに憧れていました」


「でも、父や祖父母は反対しました。水城みずしろ家のためには、ピアノよりも勉強を優先すべきだと。もっともな理由です。私も、できれば家族内で喧嘩などしたくなかったので、ピアノは我慢することにしました」


 父は水城家の長男で、代々引き継がれてきた製鉄関連の事業を広げ、電子部品等の製作・販売で大きな利益を上げていた。立派な跡取り息子である父と比べると、どうしても家庭での母の発言力は弱かったみたいだ。新しい冷蔵庫を買う時も、千尋を有名な学習塾に通わせる時も、最終的な決定権は父にあった。


「しかしある日、家に帰ると客室に黒くて艶々つやつやのアップライトピアノが置かれていました。そこで母に尋ねると、こっそりと貯めていたへそくりで購入したというんです。私は嬉しくて嬉しくてたまりませんでした」


 ちらりと快龍の方を見る。

 彼はただ黙って、全部の神経をそこに集めるみたいに耳を澄ましていた。


「祖父母や父はあまりいい顔をしませんでしたが、母は私に勉強も頑張らせると言い張って、最終的にはうちにピアノを置くことが認められました。最初のうちは母がピアノを弾いて、私はそれを聴いてなんとなくで弾いているだけで楽しかったんです」


「でも、いつの日か母は私に才能があると盲信するようになりました。私としても褒められて嬉しかったので、上級のレッスンに通わせてもらえるようになった時には誇らしい気持ちでした。ですが、次第にピアノを楽しむという気持ちは薄れていきました」


 母はいつの間にか、千尋のためというよりも自分の正しさを主張するために、娘にピアノを弾かせるようになった。

 千尋は天才だから。

 それが母の口癖になった。


「ミスをしないように弾くことばかりを意識するようになりました。母の期待に応えたくて、指が痛くなるほど練習しました。もちろん、勉強も抜かりなくやっていたし、ずっとそうやって耐えていました。ですが、ある日突然、緊張の糸みたいなものが、プツッと切れたんです。私はピアノを見るのも嫌になってしまいました」


 天才であることに、嫌気がさした。

 周りから見たら、贅沢な言い訳だろう。

 ピアノ教室の友人に話しても、「そんなのもったいないよ。千尋ちゃんは指も長いし、リズム感も正確。わたしは千尋ちゃん目指して練習してるんだから」と言って、引き止められるばかりだった。


「それでも、今もピアノの稽古は続けているんだろう? そんなに嫌なら、辞めればいいんじゃないか?」


 快龍の意見ももっともだ。

 だけど、そう簡単にピアノを辞めることはできなかった。


「快龍さんにはわかりにくいかもしれませんが、家庭用のピアノでも五十万円くらいかかるんです。それに、毎月のレッスン代も合わせたら、母が私にどれだけ投資してくれたのか、計り知れません。今更、私が嫌いになったからと言って投げ出せないんです」


 千尋はずっと俯いたまま、スカートに置いた両手を見つめていた。

 視線も声も、下の方に沈んでいった。


「だから、突き指をして喜んだのか。一時的でも、ピアノから離れられるから」


「その通りです。バレーだって、半分は現実逃避のために始めたんです。そんな考え方をしている時点で、甘いってわかってるんですけどね」


 ピアノの舞台で、世界の第一線で活躍しているプロたちも、一度は挫折を味わっているのだろう。

 必要なのは、その挫折を乗り越えられるほどのこだわりが自分の中にあるかどうかだ。 


「いや、甘くないだろ。俺は千尋を立派だと思う。実際、ピアノのレッスンを続けながらも、学年一位を取り続けてるわけだろ。羨ましいよ。才能の塊じゃないか」


「違います。私に才能なんかありません。ただ器用なだけなんです」


「だが――」


「多分快龍さんは、本当の才能について考えたことがないんですよ」


 千尋は快龍の言葉をさえぎった。

 

「本当の才能っていうのは、その対象をずっと好きでいられることだと私は思うんです」


「芸術でも、スポーツでも、学問でも。その分野に熱中してどれだけ時間や体力を使っても、自分の専門分野を嫌いにならないこと。それが一番大事な才能なんじゃないでしょうか」


 好きでい続けることができない辛さもわからないのに、才能という言葉で、容易たやすく片付けられるのが嫌だった。

 人より早く技術を身につけられるだけで、自分にはそれを楽しみながら続ける力がないことがわかっていたから。

 挫折を乗り越えられるほどのこだわりなんて、持っていなかったから。


「……なるほどな」


 千尋の発言に納得したのか、快龍は顎に手を当てて前のめりになった。

 悩んでいることを吐き出せて、少しだけ胸が軽くなったような気がする。

 これ以上引き留めても、彼に迷惑だろう。

 ありがとうございましたと、立ちあがろうとした。


「じゃあ二番目に大事な才能は、苦手なことでも努力できることだな。やっぱり、千尋には才能があるよ」


 隣から、穏やかな声が聞こえた。

 どうしてだろう。真っ白な言葉が宙に浮かんだまま、消えない。

 細かな違いはわからない。でも、確実に。

 才能という言葉が、今までとは違う響き方をしていた。


「俺はバレー以外は全く頑張れなかった。バレーをやめてからは勉強も好きになったけど、人間関係とか、芸術とか、そういうのは全然ダメだ。なかなか自分から頑張ろうなんて思えない。でも、千尋はきっとそこの許容度が高いんだろう」


「いや、許容度が高いなんて、そんなことはありませんよ。苦手なものは苦手なままです」


「……でも、苦手でも頑張れるから、こうやって一緒に帰ってくれたんだろ?」


 快龍が立ち上がった千尋を見上げながら微笑んだ。

 思わずハッとした。身体の中を、電流が走ったみたいだった。

 男の人は苦手だと、自分で言っていたのを思い出す。


「た、確かにそうですが」


「な? そうだろ。千尋は頑張り屋の才能があるんだよ。だからあとは、心から熱中できるものを見つければいい」


 快龍が立ち上がった。

 彼の顔が、息がかかりそうなくらいの距離にある。

 近い。

 顔が赤くなっていくのが、自分でもはっきりとわかった。


「熱中できるものなんて、そんな簡単には」


「よし、千尋。俺が熱中させてやる」


「え!?」


 快龍に右手を握られる。

 心臓がうるさいくらいにドクドクと高鳴っている。

 BPM=150。

 胸の中のメトロノームが、振り切れそうなくらいのテンポで動いていた。


「こういうのは、俺の得意分野なんだよ。明日から一緒に」


「え、あの、快龍さん! 私、そういうのは慣れてなくてですね! できればもう少しお話したりして、お互いのことを知ってからで――」


「――明日から、一緒に筋トレしよう!!!」


――え?


 拍子抜けとは、文字通りこのことだと思った。

 いや、自分は何を期待していたんだろう。

 キラキラと目を輝かせる快龍を見ていると、面白くなって吹き出してしまった。


「ん? 何笑ってるんだ? 筋トレ、結構きついぞ」


「ふふっ。すみません」


 快龍さんは不思議な人だなぁ。

 まっすぐで、不器用で、温かくて、一緒にいると気が緩んでしまう。


「――私、快龍さんは苦手じゃないかもしれません」


 気づけば、面白さのあまり涙が溢れてきていた。

 それを左手で拭ったら、包帯の内側に、じゅわっと温もりが染み込んでいくみたいだった。

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