8.左手
「
すっかり日が落ち、街灯が灯る帰り道。隣を歩く
快龍は自転車をおしながら歩いていた。
電車通学をしている千尋が、一緒に帰ろうと誘ったからだ。
「送っちゃいなよー。男を見せな」という八重垣先生のノリの軽い後押しもあって、突き指をした彼女を、駅まで送り届けることになった。
「俺はいいが、千尋は良かったのか? 男が苦手なんだろ? 二人きりで下校するっていうのは……」
「もう! いちいち言わないでくださいよ! 意識すると緊張しちゃうじゃないですか!」
千尋の頬がふっと赤くなる。
長身で鼻筋も高く、一見すると大人っぽい印象の彼女だが、表情に出やすいタイプであるようだ。
快龍は一応彼女に気をつかって、
【 街路樹・快龍・自転車・千尋 】
という、自転車を二人の間に挟む鉄壁のフォーメーションを作っていたが、効果はあまりなさそうだった。
二人が歩く道にはプラタナスが等間隔に植えられていて、道路を挟んだ向かい側には牛丼のチェーン店とコンビニが並んでいた。その隣には大きな駐車場を持つドラッグストアが建っている。快龍たちが通う高校があるのは、都会と田舎のちょうど中間といった雰囲気の街だった。
「でも、快龍さんもテンション低いですね。せっかく女の子と二人で歩いているのに。これのことまだ引きずってるんですか?」
千尋が左手の指先に巻かれた包帯を、自分の顔の前に近づけた。
「それはそうだろ。俺が怪我させたんだから」
「快龍さんって真面目なんですね~。でも、左手ですし、私は全然気にしてないですよ。勉強にもほとんど支障はなさそうですから」
快龍を安心させようとしたのか、千尋は右手でペンを握る仕草を真似て見せた。
「こんな時まで勉強の心配か。さすが、学年一位は違うな」
「うわ、ご存知だったんですね。恥ずかしい」
「あれだけ毎回一位取ってたらな。どんなやつだろうと思っていたが、やっぱり天才は一味違うみたいだな」
「そんなことありませんよ。快龍さんだって、いつも二番にいるじゃないですか。私も、いつか抜かされるんじゃないかとヒヤヒヤしてるんですよ」
「え、知っていたのか」
千尋にとって、二位以下の存在など気にしていないものだと思っていた。
「私は知ってますよ。快龍さんがすごい人だってこと」
千尋が前を向いたまま、囁くように言った。
私は知っている。なんとも強い言葉だ。
嬉しさと、気恥ずかしさが、同時に込み上げてきた。
耳がくすぐったいような感じがする。
あらたまって褒められると、なんと返していいのかわからなかった。
「……、恥ずかしい、な」
「そんなふうに言われると、私も、自分で言ってて恥ずかしくなってきましたよ」
「……」
「……」
沈黙の中、快龍のスニーカーがキュッと地面を踏む音と、自転車の車輪が回る音がやけに大きく響いている。
「痛っ」
自転車のペダルに脛がぶつかってしまった。
千尋は「大丈夫ですか」と心配しながらも、口元は少し緩んでいた。
「すまない。俺も、こういうのは、慣れていないんだ」
「こういうの?」
「女子と二人で帰ったりはしないから」
「そうなんですか? ……、紗良とは一緒に帰ったりしてないんですか」
「昔はいとこ同士よく遊んでたんだけどな。最近は疎遠になってた」
「ふーん、そうなんですね」
千尋は何かを考えるように顎に指を当てていた。
歩行者用の信号が赤になり、二人並んで横断歩道の前で立ち止まる。
制服姿の男女が二人。
はたから見れば、恋人のようにも見えるだろうか。
片側二車線の道路を、途切れ途切れにヘッドライトが流れていく。
「本当は私も、男の人と気軽に話したり、冗談を言い合ったりしたいんですけどね」
千尋がポツリと呟いた。
まっすぐに背筋を伸ばして信号を待つ彼女の横顔は、
「あ、今、こいつ急に何を言ってるんだって顔しましたね?」
「いや、意外だなと思って。そういうことには興味がないんだと思ってた」
「そういうこと?」
「いや、こっちの話だ」
快龍がお茶を濁すと、隣の天才は「気になるじゃないですか」と言って、ローファーで地面をコンコンと小突いた。街灯を反射して艶々と輝くローファーは、きちんとした手入れをされているみたいで、快龍の汚れたスニーカーとは大違いだった。
「……、この前から思ってたんだが、どうして同級生にも敬語なんだ?」
正直に答える代わりに、快龍は話題を
赤信号を見つめる千尋の目がすっと細くなるのを、見逃さなかった。
「染み付いてるんですよね。癖みたいなものです」
「……、癖にしては、上品で良いものだと思うが」
「上品、ですか。そう言っていただけるのなら、家族も喜びます」
「家族? 家族が何か関係あるのか?」
「
なるほど。そういえば水城家は名家だと紗良が言っていたことを思い出した。
言われてみれば、彼女の所作は洗練されているように見える。
「しつけの一環、ということか?」
「そうですね。特に母親には厳しく言われています。私は一人っ子で、跡取り息子を産めなかった
千尋がハハハと笑って、「青になりましたよ」と歩き出した。
快龍には、なんと返したらいいのかわからなかった。
「すみません、家庭の事情なんて、あまり人に話すものではありませんよね」
彼女の歩き方は静かで、音がしなかった。
ああ、そういうことか。
横断歩道を渡り終えたとき、信号の色が変わるように、快龍の中で千尋の見方が変わった。
視点が変わって、腑に落ちなかった彼女の発言の意味が、やっとわかった。
「でも、快龍さんはやっぱりマネージャーに向いてますよ。なんというか、相談したくなっちゃいます。身体が大きいから、安心感があるのでしょうか」
「千尋。それならもっと肝心なところまで、相談してくれ」
「え? どうしました?」
「さっき保健室の前で、突き指したかったって言ってたよな」
「……、ええ、言いましたね」
「最初は意味がわからなかったんだが、今の話を聞いて、なんとなくわかった気がする」
快龍はそこで歩みを止めた。
同じように立ち止まった千尋の、指の包帯。
真っ白になった、左手の中指。
「確かに、左手なら勉強に支障はないかもしれない」
「なんですか? 一位の座は簡単には譲りませんよ」
「でも、左手が使えないと、確実に困るものがある」
「……」
千尋の沈黙で、快龍は答えを確信した。
進学校で学年一位であり続けることのプレッシャー。
それよりも、彼女にとって重たいものがある。
「本当は、ピアノの稽古なんてやりたくないんじゃないか?」
視線の端で信号が点滅している。
快龍の言葉に、千尋はまたハハハと笑った。
力のない笑い方だった。
「マネージャーだけじゃなくて、探偵さんも向いているのかもしれませんね」
千尋がまた静かに歩き出した。
天才だと思っていた彼女も、自分と同じように悩んでいたのだ。
その才能はきっと理解できないが、その苦しみなら、分かり合えるかもしれない。
快龍は自転車の右側に移って、千尋の後を追った。
できるだけ近くで、彼女の声を聞き漏らさないように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます