7. ちょっと外で話せる?

「いやぁ、やえちゃんがおってよかった!」


 紗良さらが胸に手を当てて、安堵のため息をついた。

 突き指をした千尋ちひろを連れて、ダメもとで保健室を訪れたのだ。


「帰る直前だったけどねー」

 やえちゃんこと養護教諭の八重垣やえがき先生が、氷水で冷やした千尋の指を拭いて包帯を巻いている。彼女はまだ新卒二年目と若い先生だ。真偽のほどはわからないが、やえちゃんと話すために仮病を使う生徒が男女ともにいるらしい。ぶっきらぼうな感じが人気なのかもしれない。


「ありがとうございます」

 保健室の丸いすに座った千尋も、ぐるぐると太い包帯が巻かれるのを眺めながらお礼を言った。


「いやいや、これが仕事だからねー。それに、きちんと応急処置ができててよかったよー。さすが紗良」


 八重垣先生は既に白衣を脱いでいて、濃い緑色をしたタートルネックのニット姿だった。

 快龍が保健室に入った瞬間は春物のコートを羽織っていたから、本当に帰る直前だったのだろう。そう考えると、申し訳なさが込み上げてくる。


「えへへ、ありがとうございますです」


 紗良が嬉しそうに鼻を擦る。千尋が突き指をしたとわかった直後、彼女は救急バッグから冷却スプレーを取り出して患部にかけた。そして素早く保健室への移動を決めたのだった。


 その間、快龍かいたつはただ立ち尽くしていた。

 マネージャーであるはずの自分が、何もできなかった。

 

 今もなお、赤く腫れた千尋の指に巻かれていく包帯を眺めていることしかできない。

 不甲斐なさに唇を噛んでいたら、血の味がした。


「あ、あの、快龍さん。そんなに気負わないでください」


 無言で立つ快龍の様子を心配したのか、千尋が笑顔を作ろうとした。

 眉が下がった、ぎこちなく下手くそな笑い方に、余計に胸が苦しくなった。


「千尋、本当にすまなかった。俺のせいで……」


「いえいえ。あれは事故ですし、私がしっかりブロックの形を作れていなかったのも悪いんです」


「いや、違うんだ。本当は――」


〈ガラガラッ〉

 快龍の言葉を遮るように、保健室のドアが勢いよく開いた。


「千尋!! 怪我したって聞いて、はぁ、はぁ、大丈夫!?」


 息を切らしながら、ドアにもたれかかるように腕をついているのは、ニット帽を被った女子生徒。

 彼女はそのままよろよろと千尋の前に歩み寄った。


「トーカ、来てくれたんですね。でも、突き指くらいで大袈裟おおげさですよ」


 千尋が嬉しさと恥ずかしさを半分ずつまぜたような表情で言った。

 トーカは千尋の前にしゃがみ込むと、はあっと大きなため息をついた。


「ウチは千尋が心配で……。ああ、こんなにぐるぐる巻きになって、折れたりしてないん?」


「折れてたらもっと腫れてるし、千尋ちゃんも耐えきれないと思うから、折れてはいないよー。安心して」八重垣先生がトーカの心配を払拭するように言った。そして訪台や消毒液を、ガラス張りの棚の中にそっとしまった。


「そっか、はぁ、それなら、よかった」


 トーカは千尋に向かって唇をふるふると震わせながら微笑んだ。

 そして勢いよく後ろを振り返ると、茶色いカラコンの入った瞳が、ギョロリと動いた。

 視線が痛い。完全に睨みつけられている。


「あんた、ちょっと外で話せる?」


 ブレザーを脱いで腕にかけながら、トーカが言った。


「トーカ、快龍くんは悪くなくて」紗良が弁護しようとする。


「ウチはちょっと二人で話したいだけなの」

 

 しかし、トーカは聞く耳を持たなかった。

 快龍にしてみても、断ることはできなかった。

 他の三人を保健室に残し、トーカに続いてひっそりとした廊下に移動する。

 カッターシャツ姿のトーカの背中からは、感情を読み取れなかった。


「どういうつもりなん?」


 突然、トーカが立ち止まった。

 外はすっかり暗くなり、窓ガラスには照明が灯る廊下の風景が反射している。

 トーカはそんな暗がりの中をじっと見つめている。


「怪我をさせるつもりはなかったんだ」


「つもりはなかった。でも、怪我をする可能性はあった。そうじゃないん?」


「それは……」


 否定したくても、できなかった。

 千尋が突き指をしたあの一球。

 快龍は明確に彼女の指先を狙って打ったのだ。


「やっぱさ、ウチらのチームにあんたなんか要らないんだよ。大体、何のためにあんたはうちの部活に入ったの? 女子と絡むため? そんな不純な動機なん?」


 トーカが早口で一気に捲し立てる。

 呼吸は整ってきたが、かなり興奮しているみたいだ。


「いや、それは、紗良がこのチームで勝ちたいと言っていて、俺もそれに協力したいと思ったからで」


「勝ちたい? 試合ができる人数も揃ってないのに? よく言うよ」


「それは、これから集めて」


〈パァン!!!!〉

 トーカが廊下の壁を思い切り叩いた。

 高く鋭い音がして、すぐにそれが嘘だったかのような沈黙が訪れた。


「ウチは、勝つとか、そういうのはどうでもいいんよ」


 トーカがゆっくりと、一つ一つの言葉を噛み締めるように言う。

 肩が小刻みに震えている。


「誰かが怪我するくらいなら、負けた方がマシじゃん」


 ニット帽から伸びた長い金髪を靡かせながら、彼女が振り返った。

 その目には、大粒の涙が浮かんでいた。


 負けた方がマシ。

 その言葉に、快龍は何も返せなかった。

 勝つことに、誰よりもこだわってきた。

 しかし同時に、怪我の苦しみを誰よりも理解しているつもりだった。


「何があったの!? 今、おっきな音したけど!」

 

 保健室のドアが開いて、紗良が飛び出してくる。

 それを合図に、トーカが腕で目を乱暴に拭いながら駆け出した。


「あ、ちょっとトーカ!」


 慌てて紗良がトーカの後を追う。

 快龍はやはり、その場を動けない。

 自分にトーカを追う資格なんてない。

 遠のいていく足音を耳にして、握りしめた拳が力無くだらんと落ちた。

 窓の外を眺めたが、暗がりの中に二人の姿は見つけられなかった。


「……、快龍さん? 何があったんですか?」


 暗い沈黙の中にほんのりと灯るような声。

 振り返ると、千尋が心配そうな表情でこちらを見ていた。

 後ろにはコートを羽織った八重垣先生も立っている。


「トーカを怒らせてしまったみたいだ」


「……、トーカは感情が豊かですからね。そんなに気に病むことはないですよ」


 千尋の声は、紗良のようなよく通る声ではない。

 だが、耳を優しく包み込むような、穏やかにこもる声だった。

 まるで、あらゆる罪を許す聖母のような。

 素直に許されてしまいそうになるのを、頭を左右に振ってこらえた。


「いや、でもあれは一方的に俺が悪かった」


「快龍さん、勢いに押されて弁明できなかったんじゃないですか?」


「……、違う。実際に俺は千尋を怪我させてしまった。そもそも、俺はマネージャーに向いていなかったんだ。自分のことばっかりで、他の人間のことまで考える余裕がない。そんな人間に、誰かを支えることなんてできないんだよ」


「そんなこと……」


 千尋が言葉に詰まった。

 伏目がちな細い目が、快龍の足元に向けられていた。


「そんなこと、言わないでください!」


 突然、千尋が今までにないくらいに大きな声を出した。

 後ろにいた八重垣先生が思わずのけぞってしまうくらいの迫力。

 快龍の目も驚きで丸くなっていた。

 千尋自身も思ったより大きな声がでたことに驚いたのか、口元を包帯の手で覆っている。


「す、すみません。でも、そんな、ちょっと失敗したくらいで、向いてないとか言わないでほしいんです」


 千尋の目はまっすぐ快龍の方を向いていた。


「快龍さんは罪悪感を抱いているかもしれませんが、今回の件は私にも責任があります」


「いや、千尋は悪くない」


「いいえ。私が弱かったんです」

 

 千尋がまた快龍に向き直った。

 窓ガラスに映る彼女のポニーテールが、ゆらゆらと揺れていた。


「私は、心のどこかで、突き指しないかなぁと期待していたんです」


 千尋がハハハと笑う。

 嬉しそうな、それでいてどこか寂しそうな笑顔。


――突き指を、期待していた?


 唐突に放たれたその言葉。

 快龍の理解は、まだ、追いついていなかった。


「……、快龍さん。よかったらこの後、一緒に帰りませんか?」

 

「え?」


 頭がまだぼんやりとしている。

 一緒に帰る? それは、二人でということか?


「おお、いいねー。青春だねー」


 八重垣先生が唇を尖らせてからかうのに対して、「や、やめてください」と千尋が頬を赤くしている。


「……駅まででいいので、一緒に帰ってくれますか?」


 そう言った千尋の表情はなにやら物憂げにも見えた。

 学年一位の天才が、何を考えているのか。

 読み解くことができないから、自分は万年二位なのかもしれない。

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