6.チームスポーツ

 薄暗く、ほこりっぽい倉庫の中。

 スマホのライトで照らした先には、藍色のドレスを着たゆきがいる。

 まるで人形のように、その表情には感情がなかった。

 

「あんまりジロジロ見ないで」


 まばたきもせずに雪は言う。

 胸元が大胆に開いたドレスから、快龍かいたつは慌てて視線を逸らした。


「なぁ、どうしてこんなところにいるんだ?」


 倉庫の隅に置かれたダンベルを見ながら尋ねた。

 ここは校庭の片隅にある旧倉庫。運動部でさえこんな場所に立ち寄ることはないだろう。それに、ここには霊が出るという噂もあった。


「同じことを私も思っている」


 しかし雪の返事は、答えになっていなかった。

 それに、まるで小説に出てくる女のような口調だ。


「俺はこれから部活に行くのに、着替えようと思って来たんだ。雪もさっさと着替えて練習行くぞ」


「私だって、練習してるから」


「いや、そんな格好で練習できないだろ」


「……、北条君は、とても狭い世界に生きているのね」


 雪は首だけをひねるようにして、倉庫の窓から落ちていく夕陽を眺めた。

 狭い世界?

 いまいち会話が噛み合わない。

 雪と自分の間に透明なフィルターがあって、お互いの声がちょっとずつくぐもって聞こえているような、そんな感じだった。


「とにかく、さっさと行くぞ」


「私は行けない」


「どうしてだ?」


「それは言えない」


「あのなぁ」


「でも、一つだけ言えるのは」


 雪が一度言葉を切って、埃だらけの窓を見つめる。

 空は暗い橙色だいだいいろに染まっていて、校舎の影が黒く長く伸びていた。


「マネージャーだからといって、そんなに過保護にしてもらう必要はないわ」


 雪はあくまで淡々と言った。

 黒々とした睫毛まつげが、その時ようやくパチリと動いて、彼女の大きくて淡い青色をした瞳に幕を下ろした。

 乾いた空気の中で小さな埃が舞っているだけなのに、彼女が視界の中央にいるとなぜだか神秘的な背景みたいだった。


「別に過保護じゃなくて、雪がいた方が練習の幅が増えるだろ? みんなのためでもあるんだよ」


 そう口にした瞬間――。

 彼女の周りに浮かぶ白い粒子がザァッと揺れたように見えた。

 今まで無表情だった彼女の眉が大きく歪められた。


「みんなのためって、私は嫌い」


 雪の言葉はナイフみたいに鋭く冷たかった。


「でも、バレーはチームスポーツだろ」


「わかったようなことを言うのね。自分は怪我を理由にバレーから離れて、一人で勉強ばっかりしてたくせに」


 ぐっ。

 それについては、何も言い返せなかった。

 ケガをしていてもチームに貢献はできたはずなのに、今までの自分はそれを選ばなかったのだ。

 カウンターでみぞおちを殴られたような気分だ。

「だが、それでも、俺は――」

 何か言葉を発しようとしたが、そこから先は口を開いても空気がすっと肺から抜けていくだけだった。


 完全に、彼女に言い負かされてしまった。

 しかし雪は、無表情なわけでも勝ち誇った表情をしているわけでもなく、目を細めて唇の端を少しだけあげ、慈愛じあいに満ちた顔でこちらを見つめていた。


「別にいいのよ。みんな、自分が可愛いんだから」


「だから、私は私の好きに生きるの。それでいい。うん。それでいいでしょう?」


 ドレス姿の彼女は、まるでおとぎ話の主人公みたいに両手を広げた。

 正論だと思った。間違っていない。

 しかし、彼女の青い瞳はなぜか小刻みに震えているみたいだった。


「わかったら、もう行って」


「雪、俺は――」


「行って」


 彼女はくるりと反対側を向いた。

 何をするのかと思ったら、両腕を背中側に回し、ドレスを留めていたファスナーをつまんでジジジと下ろし始めた。

「お、おい!」

 彼女はドレスを脱ぐ動作を止めない。

 そんな捨て身の策が、快龍を追い出すのに有効な手段だとわかっているかのようだった。

 そのままそこで見ているわけにもいかず、快龍は床に置いたリュックを手に取り、倉庫の扉に手をかけた。


「私は別に、あなたがマネージャーなることを否定しない」

 扉を開こうとしたとき、雪の声が聞こえた。

 思わず振り返りそうになるのをこらえながら、立ち止まる。


「そうか、それなら――」


「だけど、これ以上私に期待しないで」


 どうやら、ぬか喜びだったようだ。

 倉庫の中からガタンと音がしたが、もう振り返らなかった。


***

「快龍くん! 遅いよ!!」


 そんな風に怒られるのだと思ったが、近くの男子トイレで着替えてフロアに入ると紗良は既にパス練習をしていた。

 パス練習。つまり、パスをする相手がいる。

 まだ少しぎこちなさが残る動きで、ボールを返しているのは千尋だった。


「あ、快龍くん! 何してたの!」

 集中していたのか、快龍が練習用のシューズを履き終わる頃になってようやく紗良がパスを止めた。


「すまないな。終礼が長引いてしまって」


「そうなんだ。まあいいや。それよりも、今日は千尋がいるよ!!」


 紗良が嬉しそうに千尋の背中をポンポン叩いた。

 この空気に水をさすのも良くないと思ったので、雪と会ったことは言わないことにした。


「ど、どうも」


 長い髪をポニーテールにした千尋が頭を下げた。少し汗をかいているのか、前髪の一部が額にくっついている。


「きてくれたんだな。ありがとう」


「わ、私は初心者なので、足を引っ張ってばかりですが」


「そんなことないよー! 千尋は天才なんだから!」


 謙遜けんそんする千尋に、横から紗良が笑いかけた。

 千尋は手を足の前で組んで、ぎゅっと肩を縮こめていた。

 天才。

 深い意図はない褒め言葉に、快龍の眉がぴくりと動く。


「そういえば、ポジションを確認してなかったな。紗良はレフトだと思うけど、千尋はどこなんだ?」


「私は、ブロッカー? です」千尋が小さな声で答える。


「そうそう、千尋は背が高いからね。ミドルブロッカーやってもらおうと思ってるの」


 紗良がそう補足した。

 紗良のポジションである【レフト】とは、コートの左側からスパイクを打つ人間のことで、右利きのエーススパイカーは基本的にこのポジションになる。

 一方の【ミドルブロッカー】は攻撃時はコートの中央あたりでクイックと呼ばれるテンポの早い攻撃を行い、守備の時はその名の通りブロックの要となるポジションだ。


「そうか、じゃあこのあとはブロックの練習をしてみるのもいいかもな」


「あ、それありがたいかも! 今まで、ちゃんとできてなかったんだよね。千尋もそれでいい?」


「は、はい。わかりました。よろしくお願いします」


 千尋がぺこりと頭を下げる。

 成績優秀で運動もできて、物腰も柔らかい。まるで朝ドラのヒロイン。

 綾世が言っていたことを思い出して、目の前に立つ彼女を改めて眺める。

 170cmくらいあるだろう。モデルのようにスラッとした体型で、絹のような肌をしていた。


 しかし、身体がまだバレーに馴染みきっていないのだろう。

 そのきめ細やかな肌の腕の部分は、ボールの跡で真っ赤になっていた。


「その腕、大丈夫か?」


「は、はい。これくらい、ピアノの稽古に比べたらどうってことないです」


 千尋がハハハと自嘲気味に笑った。

 その笑い方が、耳に痛かった。


 わかっているつもりだった。

 彼女の笑顔の裏にどれほどの努力が隠れているかなんて。

 わかっているはずだった。

 天才と呼ばれる人間が、天才なだけではないことなんて。


 だけど、実際に目の前に立つ千尋のあまりに健気な態度を、快龍は直視できなかった。


「よし、じゃあ早速やろう」


 快龍は胸の内の黒い感情を誤魔化すように、カゴのなかからボールを一つ手に取って床に置いた。


***

 本来ブロックはネットの前で飛ぶものだが、ステップの踏み方、腕の出し方、指先の形、ボールの位置など、同時に判断しなければならないことが非常に多い。

 だから、まずは床の上で立ったまま手の形を覚えることから始めようと考えた。


「じゃあ、まずは手の形の練習をしよう。両手を上げて、ブロックの形を作ってみてくれ」


「こ、こうですか?」


 快龍が言うと、千尋はおずおずと長い両腕をまっすぐに上げた。


「うん。それだとボールが当たった時に弾かれてしまうから、ここで意識するのは指先まで力を入れて、ボールを包み込むようにすることだ」


 快龍はそう言って、お手本となるように自分でブロックの形を作ってみせた。

 紗良も少し離れたところで自分の腕を確かめるように伸ばしている。


 千尋の腕の形は、先ほどよりも良くはなったが、まだうまく力が伝わるフォームになっていなかった。


「腕は体の真上じゃなくて、斜め前に出すようにするんだ」


「ひっ!」


 快龍が千尋の肩のあたりに触れると、彼女は高い声をあげた。

 恥ずかしそうに顔を赤らめている。

 安易に触れたりするのはやめようと、反省した。


「すまん、急だったか」


「こちらこそ、す、すみません。慣れてなくて」


 千尋は改めて、ブロックのフォームを作った。

 明らかに先ほどよりも良くなっている。


「うん、飲み込みが早いな。次はボール有りでやってみよう」


「わ、わかりました!」


 千尋が真剣な顔で頷いた。

 ああ、なんて純粋な目だ。

 快龍は床に置いていたボールを片手で掴み、持ち上げた。

 

「じゃあ、飛ばずに打ち込むから、さっきと同じような腕の形を作ってくれ」


 ボールに回転をつけて真上に投げる。

 まあ、最初はこんなものでいいだろう。

 千尋がブロックを作ったのを確認して、彼女の腕に向けて5割ほどに緩めた力でスパイクを打った。


 バシンッ!


 千尋の腕に弾かれたボールは、綺麗な角度で地面に落ちていった。


「千尋!! めっちゃ綺麗なブロックやん!」


 興奮したのか、紗良が関西弁で褒め称えた。

 確かに、予想を超えて綺麗なフォームだった。


「ありがとうございます!」千尋は自分の手のひらを見つめて、嬉しそうに微笑んだ。


「うん、悪くなかったな。もう一回、今度は少しずらして打つから、ボールを見て手の位置を調節してくれ」


 先ほどのナイスブロックは、千尋が腕を動かさずともボールが適切な位置にあたるように、快龍がスパイクを調整した結果だった。

 次はそうはいかない。

 少し力を強めて、7割ほどの筋力を動員する。


「千尋!! すごい!!」


 しかし、紗良が褒めるように次の一球も千尋は完璧にブロックをしてみせた。

 飲み込みが早いどころの話ではない。

 流石に偶然だろう、そう思うことにした。


「次、行くぞ」


 間髪を入れずにボールをあげる。

 千尋は無言で、全神経を腕に集めているようだった。


 パァァァン!


 そして再び、完璧とも言える形でのブロックが決まった。

 千尋は既に喜んでいなかった。

 集中を切らさず、次に来るボールに備えて、腕の形を整えている。


――嘘だろ?


 スパンッ!

 パシンッッ!!

 タァァンッ!!!


 みるみるブロックの精度が上がっていく。

 ネットを挟んだやり取りではないとはいえ、快龍は既に9割弱の力でスパイクを打っているが、ことごとくブロックで地面に叩きつけられている。


「もう一回、お願いします」


 鋭い視線で見上げて来る千尋。

 恐怖すら覚えた。

 塵も積もれば山となる。

 そう信じて自分が積み上げてきたものを、一瞬で吹き飛ばすような。

 天才とは残酷だ。


――ここで一度、失敗させなければ。


 快龍の中のナニカが、そう囁いた。

 

 そこで、千尋の指先を狙った。

 

 試合本番でもブロックアウトをとるときに、よくすることだ。

 ブロック側がこれを察知してかわすのは、プロでも容易ではない。

 失敗の味を彼女に知って欲しかった。

 これも千尋のため。そんな風にさえ思ってしまっていた。


「ッ!!!」


 彼女の指が弾いたボールは、体育館の隣側、バド部が練習しているあたりまで飛んでいった。

 口を衝いて出てきたのは、「ほっ」というため息だった。


「まあ、今のは仕方ない――」


 そう微笑みかけようとしていた。

 しかし、千尋の表情で異変に気付いた。

 先ほどまでも真剣な表情をしていたが、眉に力が入りぎゅっと中央に寄せられている。


「千尋! 大丈夫!?」 状況を察した紗良が、慌てて駆け寄る。


「だ、大丈夫、じゃ、ないかもです」


 指を押さえた千尋の表情は、苦痛で歪んでいた。 

 冷や汗が、快龍の背を伝う。


「これ、突き指だね。早く冷やさないと!」


 その場から動けない快龍の耳に、落ち着いた紗良の声が冷たく響いた。


 ただの怪我じゃない。

 これは、自分の弱さが招いた悲劇だった。

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